欲しいのは批評眼ではない

これを読んで思い出したのが、『消費の正解 ブランド好きの人がなぜ100円ショップでも買うのか (カッパ・ブックス)』でランキングについて語っているくだり。

一般に、人は専門的に判断できるジャンルって、せいぜい2つか3つしか持ってないと思うんですよ。自分の仕事のジャンルと趣味のジャンル、この2つくらいは押さえてるけど、あとはよくわからない。これは昔から変わっていないと思う。だから普通の人が消費したい商品のジャンルが10だとすると3つは自分でも専門家として良し悪しを判断できる。ところが'90年代以降、残りの7つは専門的ではあるけど自分が追随的には消費できるジャンルという具合になったんだと思う。つまり素人なんだけど専門家が使うような商品を買うようになった分野が増えたんです。それが一眼レフやパソコンで、後者の商品に関しては、ランキングはとりあえずは頼りにしやすい。自分がよく知らない分野の商品でほしいものがあるはずだと考えるとき、ランキングが役に立つ。

みんながいいと言っているとき、それを買うこと自体が、その「みんな」の仲間になることを象徴する。そして仲間になりたいなら同じ行動様式をとるしかない。みんなが共通に評価しているものを自分が持つことが、自分の価値になるという考え方ですね。消費することで他人の認知を受ける場合といってもいい。

トップのものしか生き残れない状況であり、そのトップのものにアクセスしていないとそのジャンルのことをぜんぜん知らないことになっちゃうんですね。逆に言えば、そのトップ3くらいまで知っていれば、それより下の部分はよっぽど好きなジャンルじゃないかぎり知らなくてもかまわない。

……私自身、この本を買ったのは平林さんがすすめていたからだったりするのですが。


ここで「選ばない」というのは、だいたい「選択肢を知ろうとしない」という意味なので、話が変わりますが。まあ、それはそれとして。
私がある程度わかるジャンルというと、小説(の、ごく一部)とまんが(のごくごく一部)ぐらい、なんですがー。
私は勘が悪いのだ!
いや、いい悪い以前に、勘がほとんど働かない。まれに、ベストセラーとかなんとなく情報が入ってくる類の作品で、「たぶんおもしろいんだろうけど私の好みではなかろう」という勘が働きますけど。「これはくる!」という勘は働かないのだ。
というわけで、選んでいる、わけではない。読んで確かめるしかない。
前述の本で、こうも言ってたのですが。

まず、原則から考えると、商品を選ぶのって、お金を選ぶのか商品を選ぶのかということでしょう。商品Aか商品Bかという選択よりも前に、そもそも商品Aはお金を手放してまでほしい物なのかどうかを考えるはず。

ここで「お金」といっているのは「時間」のほうがしっくりくる(「買える本」より「読める本」のほうが少ない)。
本屋に行っても、ネットを眺めてても、「おすすめ本」は山とあふれているわけで、いちいちきいてられない。目の前に突き出された本を、「これは読まない」「これは読まない」「これは読まない」「これは読まない」「これは読まない」「これは読まない」「これは読まない」「これは読まない」と切って捨て、たまーに、「これは読む……かも?」に出くわすのだ。その、切って捨てる、というのは、「選ばない」という選択に、なっているのだろうか?
読まなきゃわからないのに。
吟味して選んでいるヒマがあったら、読んだほうが早いんじゃないの、っていうのは、ときどき思うけど、でもやっぱりぜんぶを読むことは不可能なわけで。でもやっぱり読まなきゃわからないのだ。
誰のおすすめだろうと、たくさんの人がおもしろいというものでも、それをあてにしきって他をぜんぶ無視してしまうことはできなくて、だって私が求めているのは私が好きなものであって、それがわかるのは私しかいないのだ。
でもぜんぶを無視しないでいることは、どうしたって、無理!


……こんなことを悩んでたって仕方ない、のですがー。だってけっきょく、ぜんぶ読みたい!と言っているのだ私は。おもしろいものを効率よく探したい、ではない。
現実的なところでは、シリーズものをどこで見切るか、というのが悩みどころ。最初のうちはすっごく好きではまっててもなんとなく冷めてしまってそのまま終わる作品、とか、逆にはじめは「ふつう」だったのにいきなり豹変する作品、とか。両方あるって知ってるから、ある時点で「イマイチ」と思っても、その続きをどうするかって、困る。……困ってます。


『選択とは選ぶことではない、選択とは、決めること』