エイリアンに会いに

しばらくあんまり日記を書いていなかったのはエイリアンに誘拐されてたからです。生体実験されて人格改造されました。ほんとにたいへんでした。
とか、ほざいてないで。
スーザン・A・クランシーの『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか (ハヤカワ文庫NF)』。タイトル買いです。ほんもののエイリアンに関心はありませんが、「なぜ」と言われると答えをきいてみたくなるもんですな。……と、いうのがまさに、その「なぜ」の答えらしいです。何度も見るおそろしい夢、睡眠障害、心当たりのない痣、人間関係が昔からうまくいかない――、それはなぜか、という理由を求めて、いきあたる説明のひとつとして、「エイリアンによる誘拐(アブダクション)」があるのだ、と。もちろん一足飛びに信じるわけではなくて、ほかにいろいろあるんだけど。
ここで「睡眠麻痺」と呼んでいるのって、いわゆる「金縛り」だと思うのですけど(眠っていて目覚めたとき意識はあるけど身体は動かなくて気配を感じたり幻覚をみたりする)、金縛りっていったらエイリアンじゃなくて幽霊でしょう、アメリカ人ってへんだな!と言ったら、日本人って古い、非科学的、とか言われるのかな? いや、日本人がみんな幽霊を信じているわけでもないし(私は自分で信じているのか信じていないのかわからない、というか、いるともいないとも信じてはいない、判断していない)、このはてなアンケートでは幽霊よりも(地球に来ている)宇宙人の存在を信じている人のほうが多い。だけど、金縛りにあったときに真っ先に思うのは(慣れてる人でなければ)エイリアンではなくて幽霊、という人のほうが圧倒的に多そうだ、と思う。エイリアン――とくに、この本の表紙のような、頭がでかくて目も大きくてアーモンド型で、身体はスリムで裸でいるかぴたっとした服を着ているか――というようなエイリアンって、なんというか、むしろ、レトロな感じだ。最先端ではない。胡散臭くて、懐かしくて、可愛くて、不気味で、ふわふわしたリアリティ。その存在感はむしろ妖怪に近い。と、いうのが私の感覚ですけど。まあ、幽霊のほうが身近な存在感がある。文化差だな。

エイリアンは、ふつうの欲求や願望をもつ人たちの想像力によってつくられた、まぎれもなくきわめて人間的なものなのだ。わたしたちは、ひとりになりたくない。ほとんどのときは、自分が無力で弱い人間だと感じている。だから、宇宙のどこかに、わたしたちより大きくてすぐれたものがいると思いたいのだ。そして、それがなんであるにせよ、わたしたちに興味を持っている――すくなくとも気にしてくれている――と信じたい。彼らがわたしたちを求めている(性的にせよ、そうでないにせよ)と思いたい。わたしたちは特別だと思いたい。

アブダクションの体験談と、長年語り継がれているキリスト教の物語には、顕著な類似点がある。アブダクションの話には、科学の説明を受けつけないような、人間ではない全知の高等生物が登場し、わたしたちに道徳の規範を示す。時間がないと警告を発し、利己的な生き方をあらためないと、この星は破壊されると告げる。彼らはわたしたちのために地球にやってきて、人類を救うために働いている。彼らはすぐれた生物をつくりたいのだ。神と人間の融合をキリストに求めるのではなく、エイリアンと人間の融合をハイブリッドに求めている。宗教の教義とUFOの信じ込みは、どちらも人知を超えた高次の存在――証拠がなくても信じずにはいられない存在――への恭順が不可欠なのである。

そしておもしろいのは、アブダクティー(エイリアンに誘拐されたと信じている人)はみんな、誘拐されてよかったと言う、ということだ。おそろしかったけれど、自分はいいほうに変われた、と。上に「人格改造」とか書いたけど、そういうことを言う人はこの本には登場してないですね。変わるにしても、よい変化だ、と。やっぱり、幽霊とエイリアンでは、その存在の由来だけでなく、その存在の意味するところもまったく違うようだ。宗教的素地の違い? 日本人が神様を信じていないとも思わないけど――特定の宗教を信仰していないことと神様を信じていないことは別だと思うので――、あんまり全知全能ではないのだ。あんまり親切でもないし、冷静でもない。って、これは、私の神様観なんだろうけれど。


日記を書いていなかったのは、まあ、こんな感じ↓だったから?

私のストレス発生源を一手に引き受けている人が、最近、元気なんですよね! 元気に不機嫌! 愚痴ってくるし! おかげでちょっと珍しく消耗している。いろいろ注意されるし。いや、注意されるのは、私の悪いところでもあるし(そうじゃないところもあるけど!)、わざわざ注意してくれるのはありがたいのだろうし、人間、ストレスがまったくないのもよろしくないというし、まあ、いいですよ、ポジティブシンキングポジティブシンキング。けど、こういうのって、ほんとうにポジティブなのか、そうやっていい方向にしか解釈しないと、いい方向にしか解釈することを許さないと、逃げ道をふさいでしまう。いや、一般的に、逃げるっていうのは悪いことで、だから逃げ道をふさぐのだろうけど。それはそれで、逃げられない、ということが、ストレスになって、パンクしてしまいそうだ。――などと、思考に関する思考にうつったりもするのですが、それでも、話しかけられれば言われてる内容が頭に入ってくる前に腹が立ってくる、という生理現象はいかんともしがたい。自分の感覚、自分の感情は、ときに自分の理性よりつよい。

わたしに言えるのは、これはわたしの体験で、あなたの体験じゃないっていうことだけ。わたしは感じたの。


昨日、うどんに七味唐辛子をかけたときに、ふと、谷川史子のあるまんがを思い出して。あるまんが、というのは、タイトルをおぼえてないだけなんだけど。ある熟年夫婦のような高校生カップルのエピソードで、彼氏がうどんを前に手をおよがせたところに彼女が黙って七味を渡す、というシーンがあった、と思う。で、なんか私、うどんに七味をかけるたびにこのシーン思い出すなあ、と思ったのでした(ちなみに、私は用意してあれば七味をかけるけど、もともと実家ではうどんに七味をかける習慣がない)。さて、この記憶は正しいだろうか? まんがのエピソードのほうは、たしかめればたしかめられる(たぶん十年以上前の作品)。けど、私がうどんに七味をかけるたびに思い出していたかどうか、というのは、たしかめようがないことだ。人の記憶はたしかなものじゃない、「思い出す」という作業をしているときに、その記憶を「つくって」いるのだ。おまけに、詳細に具体的に情景を思い浮かべるようつとめるだけで、空想はほんとうらしさ、たしからしさをもつのだという。と、いうことを知っていても、私は「うどんに七味をかけると谷川史子のまんがの一シーンを思い出す」という記憶が、昨日つくったものだ、とは、思わないわけです。まあ、この場合、わざわざ疑うほうが合理的ではない、ともいえるのですが。
アブダクティーは、セラピストによる催眠などでアブダクションの体験を「思い出す」。けれど、その記憶はリアルで、おそろしく、とてもほんとうらしい。となれば、やっぱり、これを疑うのは合理的ではない、ということになる――のか。ただし、アブダクティーみんながアブダクションの記憶をもっているわけでもないらしい。催眠を受けたがらない人もいるし(こわいから、とか)。それでも、誘拐されたのだと信じるらしい。


そういえば、私にも、解釈次第では幽霊ともいえるものを見た記憶があるのでした。ずっと、なんの解釈もせずに放置している。


にざかなの『4ジゲン』の宇宙人(18歳)は、可愛いよ! 地球人殲滅しようとしてるけど。
あと、宇宙人モノとして『ヴァンパイア十字界』(作・城平京/画・木村有里)をあげておく。タイトルでは「どこが?」だろうけど。じつはすっごく宇宙人なので。