いつか

…いつかかっこいい自分になるなんて たいていありえない

いつかいつかってほとんどみんな結局なんにもなれずに終わるんだ

「家出か」
「ち、違いますっ」
 老人は小馬鹿にするように鼻を鳴らして、
「店を出て右向け右、ちょいと歩くが道なりに行った先に役場がある。入ってすぐのところに公衆電話があるからまず家に電話しろ。観光旅行協会は一階の廊下のどん詰まりだ。正直にわけを話して適当な民宿にでも放り込んでもらえ。飯を食って風呂に入って早寝しろ。フェリーは明朝十時に出る。両親はお前のことを嫌ってはおらん。行きたくないなら学校など行かんでいい。お前のことを好きになってくれる女がこの世のどこかにきっといる。以上だ」
 一気に喋って、老人は正時のわきをすり抜けて店の奥へと、
「あの、違うんです、そうじゃなくて」
「金なら貸さん。その場合は左向け左、100メートルほど行った左手に交番がある。しかし覚悟しておけ、あそこのお巡りはわしほど優しくはない。こんな島にもたまに来るんだお前のような輩が。かっ、まったく薄気味の悪い話だ。一体なにを期待しておるのやら、島じゅうのヤシの木を揺すってみたところで『本当の自分』など落ちてきやせんぞ!」

都築響一ROADSIDE JAPAN―珍日本紀行 東日本編 (ちくま文庫)』『ROADSIDE JAPAN―珍日本紀行 西日本編 (ちくま文庫)』を読んだ後に速水健朗自分探しが止まらない (SB新書)』を読んだらなんだかみょうな気分に。
『ROADSIDE JAPAN』は、にっぽんの田舎のへんな名所を車で探訪(取材時期は1993年〜1998年)、という感じの、都築さんの秘宝館好きがよくわかる本なんですけど(いや、だって、『ワンダーJAPAN 5 (三才ムック VOL. 169)』に、「潰れた鳥羽秘宝館の展示品を買い取った」って記述があるし)、まーかんたんに感化されまして旅に出たくなったのですが、しかしにっぽんの田舎といえばまさにここがそのものの場所であり、近辺で探してみてもへんなものなんて見つかるはずであり、それで見つからないのは私の「目が悪い」わけで、どっかに行けば何かが見つかる、という発想は甘いっつーか、どこへ行っても変わらないのになーまったく、この本に出てくる「名所」がおもしろいのは、都築さんがそういう目を持って探索しているからであり、私が同じとこに行ったとしても、さびれっぷりにいたたまれなくなるに違いないのだ、それがわかっていて、行くかね、自分? 行かねーよなあ……。
って、いう。
で、「名所」をつくった人々が、我が道を行ったのか、自分探しの果てなのか、まじめにうけようとしたのにずれちゃったのか、……うーん……自治体がつくってたりするのは、いちばん最後のケースなんだろうけど……。

いくらマスコミがインターネットだ情報革命だと騒いでも、結局世の中を回しているのはこういう、「サルよりアタマわるい」人たちなのだ。そして世の中を回すチカラとは、偉そうなコンセプトやあぶくゼニではなくて、こういう思いつきをためらわず実行に移してしまう、意志のいさぎよさなのだ。

まあ、私は自分ではあんまり行動しないわけです。
で、『自分探しが止まらない』だ。
近所の、まんがと雑誌で8割埋まってるっていう典型的まちの本屋さんでも、それ系のコーナーはありまして、あーこれだけ生きにくい、生きづらい人がたくさんいるんだなー、と、なんとも息詰まってなんとなくよけて通る(よけられるスペースはないが)んですが、それでも、わからないでもない。か、なー……そういう年代なのか、私はほとんど同年代とかって連帯感を持たないんだけども。いや、「自分探し」をする気持ち……てか、探して見つかると思う気持ちってのは、わからないんだけど、「止まらない」のはわかる。……わかるか? どーなんだ……。いや、自分探しくらいしますよ私も。現実逃避のような「自分探し」からすら、ちょっと逃げたような感じはあるけど。「ハルマゲドン2.0としての梅田望夫」って節がありましたが、自分の日記で「じぶん探し」を検索したら、2件が2件とも梅田さんがらみだったのには自分のわかりやすさに笑った。

自由は閉塞を生む。こともある。

http://d.hatena.ne.jp/ymd-y/20070407#1175945126

 日本人は、社会に対して、個としての自分を明確に提示していく習慣があまりありません。「自分が何者か」よりも、「自分の所属はどこであるか」に重きが置かれてきたからです。ビジネスにおいても、個の魅力や実力での勝負より、組織の看板で仕事をする傾向が全体的には強く、終身雇用制度がそれに拍車をかけていました。現実社会でのそういう土壌が、実名で自己表現するのに不慣れな社会を助長してきたともいえます。

 しかし、これからは個の実力でサバイバルしていくことがますます求められる時代です。ウェブ世界においても、「自分は何者で、どういう姿勢で発言するのか」という、パブリックな場での自己表現、身の処し方に意識的でなければなりません。

探すのをやめてはいけない。 ――スティーブ・ジョブズ

……なんか私、いろいろ読む順番間違った気がする、すごい呪いに聞こえる……! 祝いと呪いは同じようなもんだからなー、受け手の状態によるんだろう。
そう、「自分探し」がおそろしいのは、「404 Blog Not Found:探すな決めろ - 書評 - 自分探しが止まらない」のような、「自分探し」から抜け出せっつー言説すら、「自分探し」促進のことばと同層で消費されてしまうとこですよ。
……まあ、つまるところ、人間ヒマをもてあますとろくなこと考えん、ってだけの話かもしれん。

ある役割にとらわれないことは責任を放棄することにもなるが、自分とはいったい何であるのか、鏡をのぞき込むように向きあうことでもある。

『自分を使って、把握しろ。道具と同じだ。それだけが、自分の機能を知る唯一の方法だ』

自分は何者だろうと問い掛けるのはいいが、答えを出してしまってはいけない。

ところで、『ミナミノミナミノ』の駄菓子屋のおじいの案内は十代の少年向けですが、二十代三十代向けになるとどんな口上になるんだろうな?