「自然の中に輪郭線などない」



最近、なるべく絵で描く、ってことに腐心していたら、文章を書くように頭がまわらなくなって……うー、両立できんのか。
まー、そういうわけで、ドット絵はむずかしいという話でもしてみましょう。


4月はじめに『レイアウトの法則―アートとアフォーダンス』を読んでから、気にしている一節がありまして……アフォーダンスについては、たぶんすっごくおもしろい話をしているんだろーけど、そういうニオイはするんだけど(たいへん私好みな!)、残念ながらさっぱりわからない状況なので措いといて……。
松浦寿夫氏の発言より。

 (前略)対象をどう描くかという課題を前にして、単純化して言うと、二つの派閥があります。一つはデッサン派とよばれ、もう一つは色彩派とよばれます。この二つの思考の様態は、しばしば単に一方はデッサンに立脚し、他方は色彩に立脚していると思われがちですが、デッサン派の画家の絵に色がないというわけではなく、両者の差異はごく端的に、世界の認識の様態の差異と考えるべきだと思います。
 (中略)デッサン派は言い換えれば輪郭派です。それに対して色彩派の「色彩」は何かというとそれはごく端的にタッチのことですから、これはタッチで絵を作るということです。どちらを重視するかは単に絵画作品の作り方を超えて、世界の事物をどう認識するかという問題、認識の仕方そのものに関わる問題です。
 (中略)ドラクロワのとても有名な言葉に、「自然の中に輪郭線などない」という一節があります。輪郭線がないとすると、ある物と他の物を区別するのは何かというと、各々の個体のその内側から充実してくる力であり、それがある意味ではサーフェスとか、表面を内側から充実させていると彼は考えていたようです。
 (中略)乱雑に、ランダムに画面の中に分散するタッチが相互的な結集作用を引き起こして、まとまりを作った時に、形が出現する。あらかじめ秩序だてた輪郭が作られて、その中に色が流し込まれる――それがデッサン派の思考です――のではなく、幾つものタッチとして分散していたものがある条件のもとで結集し、それが事物の様相を作り出すという考え方だと思います。
 (中略)タッチがその結集能力以上に自らの存在を主張し始めると、画面から、明瞭な奥行きを備えたパースペクティヴに立脚した統一性が消失し、より分散性の高い画面が形成されることになります。さらにそれが押し進められると、分散する筆触が一つひとつの非連続的な感覚に対応しているかのようにちりぢりになってしまいます。そのために、表現の次元で、遠近法的な仕組みのもとで対象が描かれた場合とはまったく異なった対象の相貌を露出させることになったとさえ言えるかもしれません。

……うん、あのー、わからないんですけど(……)。私が絵をちょこちょこと描き出したのが同時期なので、まあ、気にしてはいたのです。自分が輪郭を描いている、という自覚はあったので。それは、小学校で(かな?)、輪郭を描いて、それに沿って色を塗るというやり方を習ったせいもあるんだろうけど、それよりはるかに大きく影響されたのはまんがなのですよね。現実の事物に輪郭を見出して描いているのではなく、ひとの絵の真似なわけです。その線がなにを表しているかわかってなくて、ただ描くとそれらしく見えるから、って感じで学習しちゃう。あとで意味がわかったりもしてたけど……。
で、タッチで絵をつくるって、どういう感じなんだろう、とか、気にしつつ(だってあんなに「認識のしかたが違う」って言われちゃ気になるじゃないですか)、ついついやりやすいものだから輪郭を描いちゃってるんです。それで、色を塗るのが苦手……そもそもあんまり色つきで発想してない、っていう……。
これだけ(?)↓が例外で、輪郭がない(下書きで描いてあとで消したってわけでもない)。

ハイク見てると、輪郭線のない、少ない絵のひともけっこういて、どのへんの影響なんかなー、とか、思ってますけど。
……というわけで。

3日間ごとに使えるブラシがかわる、ってことで、今日までがドット絵なんですけど、む、むずかしいのです、なにこれー。なにが描いてあるか、ってわかるように描く、って時点でこける。くまが描けないー。これは色彩派向きなんじゃないかと思ったのです。だって輪郭が描けるような余地がない……。

描く前の設計がものをいう分野らしい。このブラシに関しては、ペンタブレットで描こうがマウスで描こうがタッチパッドで描こうが出来上がりには影響しなさそうで、なるほどな、と思った。
しかしみなさん、タブレットが欲しいから描いているのか、たんにお題を出されたら応えずにはいられないハイカー根性で描いているのか、どっちなんだろ。