2015年の読書

奥泉光黄色い水着の謎―桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活〈2〉

「テレるって、なんで?」ナース山本が問うと、眼鏡娘は即座に応じた。
「だから自分の記憶にです。自分の記憶にテレるってこと、ありません?」
 部員一同はぼんやりしている。意味が分からなかったんだろう。桑幸にも分からない。

矢崎存美ぶたぶたの本屋さん (光文社文庫)

「でも、ドライな方だと思いますよ。人当たりがいい人って、こういう性格の人多いと思います」
「なぜですか?」
「ずっと仲良くしたり、会い続けるようになるかはわからないから、会っているその時間はお互いに気持ちよくしていようという感じですかね?」
「それがなかなかできなくて困る人も多いんじゃありません? めんどくさいとか」
「めんどくさいのならなおさら無理しない方がいいですよ。どうめんどくさいのかにもよりますけど。面倒でもやらなくちゃいけない時、めんどくささに負けちゃいけません」
「それ以外はいいんですか?」
「それ以外はたいてい本当に面倒なだけです」

ティモシー・ブルック『フェルメールの帽子――作品から読み解くグローバル化の夜明け

乗船客で二番目に大きな集団は、六九名からなる日本人すなわち倭寇であった。澳門ポルトガル人は日本人を、中国人相手に商売をするときの有能な仲間として雇い入れていた。彼らは漢字が書けたから、ポルトガル人よりも取引内容を詰める交渉に達者だったし、その外見ゆえに、ヨーロッパ人よりも自由に中国人の中で動き回ることができた。彼らは、監視をまいて内陸に潜り込むという、ポルトガル人には逆立ちしてもできない芸当をやってのけることもあった。

高階絵里加「花を詠う、花を描く――文学・美術の中の花」(日高敏隆白幡洋三郎・編『人はなぜ花を愛でるのか (地球研ライブラリー)』)

 限りある一瞬の時間を咲き映える花は、しかし、ただはかなく美しいだけなのだろうか? 臆面もなく開き、散るその姿は、どこかあからさまで見るに耐えなくはないだろうか? 疲れた心にとって五月の新緑が眼にまぶしすぎるように、不安な魂は時として、花の輝かしさや甘いにおいから、逃げ出したくはならないだろうか?

橋本みつるさらば友よ (ひらり、コミックス)

杭を打ちたいんだ
好きな友達と 笑いあったり
知らない子を 理解したりして
何かをとどめたい

樺山紘一歴史の歴史

語や観念は、つねに、表示しようとする現実をもっているが、その語の存在じたいがひとつの現実であるという、アンビバレントな関係にある。

松井優征暗殺教室 12 (ジャンプコミックス)

「手段よりも結果に対してプライドを持つべきよ」

米澤穂信クドリャフカの順番 (角川文庫)

期待ってのは、そうせざるを得ないどうしようもなさを含んでいなきゃどうにも空々しいよ。

鈴木大拙無心ということ (角川ソフィア文庫)

酒や阿片には中毒性があるが、宗教には酒など飲まずに中毒しているものを、自然の本性に引き戻す薬剤性とでもいうべきものがある。それは「我」意識といってわれらの神経の中枢を麻痺させているものを取り除くことである。

ジョン・D・バロウ『無の本 ゼロ、真空、宇宙の起源

キリスト教の教義には、創造は無から生じた(creatio ex nihilo)という概念が含まれているが、創造が無によって引き起こされたという概念は含まれていないということを認識しておくことが大切だ。創造を引き起こしたのは神であり、空虚の中に隠された何らかの性質ではない。神はつねに存在するが、宇宙には、その構造を発生させるような物質的な原因は存在しない。

隈研吾隈研吾 住宅らしさ

人間が発するメッセージの原点は、「自分は、こうやって生きている」ということの表明です。そう考えると、「茶室」とは、それを極めて空間的に整理した状態で、ぼくたちに体感させてくれる。だからこそ、500年以上もの長きに渡って生き延びてこれたのでしょう。個人的には、俳句や和歌といった形式以上に、日本人がつくり出した独特の「詩形」だと思います。
千利休が「茶室」のようなモノをつくり出して以降、「王朝的な歌の世界」を「茶室」が凌駕した。そんな極論も語れる位、生物としての人間の根っこの部分に繋がった「詩形」ではないでしょうか。このような捉え方をすると、「茶道」という形式との関係はどうでも良くなってくる。ぼくがつくる「茶室」では、単に「死なないために、最低限の水分を補給すること」の大切さを感じさせる舞台にしたいのです。

デヴィッド・リンドリー『量子力学の奇妙なところが思ったほど奇妙でないわけ 新装版

 物理量は、誰かがそれを測定するまで、いかなる現実の実在性をもたないという考え方は、アインシュタインの物理学像についての感覚をいたく侵害し、あるとき、物理学者のエイブラハム・パイスに、「月はそれを見ているときだけ存在すると本当に思うか」と聞いたりした。たぶん悲しかったのだろう。

デニス・ブレイ『ウェットウェア: 単細胞は生きたコンピューターである

 高等生物がこのような運動パターンを示したなら、私たちはそれを生物の主観的状態によるものと考えて、「飢え」や「痛み」、「恐怖」などの言葉で表現するだろう。しかし顕微鏡でしか見ることのできない微小な生物で同じことが起きると、それを表現する言葉遣いが変わる。それどころか、下等生物について語る際には主観的状態に言及するのを慎重に避けるべきという不文律でもあるかのようだ。どうやら対象が無生物であるかのごとく語らなくてはいけないらしい。しかしそれは正当だろうか? これらの生物にも内的状態や感情があると考えるほうが自然ではないのか?

ニール・ドグラース・タイソン『ブラックホールで死んでみる―タイソン博士の説き語り宇宙論

 だが、昔の科学者たちが書いた文章、なかでも特に、宇宙そのものを扱ったものを注意深く読んでみると、著者たちが神を持ち出すのは、彼らの理解の限界に達したときだけであることがわかる。彼らが自分たちよりも強い力に訴えかけるのは、自らの無知という大海を茫然と見つめることになったときだけだ。彼らが神を求めるのは、理解不能という孤独で危険な断崖に直面したときだけなのだ。しかし、自分の説明に自信を感じているかぎり、神について触れられることはめったにない。

仲野えみこ『けだものにロリポップ 1 (花とゆめCOMICS)

「派手で皆に元気をあげてる自分が好きだし 皆もそういう俺が大好きだ」

ロナルド・トビ『「鎖国」という外交 (全集 日本の歴史 9)

 これらの絵画史料は、南蛮人や唐人と区別された、絵画における朝鮮人独自のコードがまだ確立されていなかった一七世紀前半における、絵師の苦心の跡を示している。美術史家のエルンスト・H・ゴンブリッジによれば、画家は「彼らが見たもの描くというより、描くものを見る」という。前例のないもの、見慣れないものを表現しようとする際、見慣れたもの、すなわり従来の表現から出発し、目の前にあるものを、自分の見た粉本にあわせて見て描く、ということである。

山本修世ルクレル靴工房 (花とゆめCOMICS)

この人は何も聞かないんだろう
だけど言いたい事は言ってしまった

芳川由実『ヤンキーとヤンデレの彼らには友だちがいない 2 (花とゆめCOMICS)

「いや お前には合コンするだけの 人脈も人望も人権もないだろ」

ポール・デイヴィス『幸運な宇宙

 ランダウアーが問うたのは、「ニュートンの法則やその他の物理法則に体現された数学的理想化は、本当に真に受けるべきものなのかどうか」という疑問だ。法則が、何らかの理想化された数学的形式の抽象的領域に限られているうちは、何の問題もない。しかし、法則が、超越的なプラトニックな領域ではなく、実際の宇宙に存在していると考えるならば、話はまったく違ってくる。実際の宇宙には、実際の制約がある。特に、実際の宇宙には有限の資源しか存在しないはずだ。したがって、たとえば、一度に有限の数のビットしか保有できないだろう。だとすると、原理的にさえも、宇宙の計算能力には、自然な宇宙的制限があることになる。たいていの物理法則の正統的解釈は実数に基づいているが、その実数は、存在しえないことになる。

アダム・フランク『時間と宇宙のすべて

しかし宇宙は、すべての原子、すべての石、すべてのウシ、そしてすべての科学者を含んでいる。巨大な箱のようにすべてのものを包んでいるだけでなく、箱そのものだ。科学者たちは、存在全体を内側からどのように記述したらいいのだろうか?

加藤元浩Q.E.D.iff -証明終了-(1) (講談社コミックス月刊マガジン)

(燈馬君の新居の本の要塞を見て)
「処分したんじゃないのかよ!!」
「減らしたんですけどね
 でも気が付いたらこうなってて」
「あんたの本はつがいのハムスターか!!」

コンドウアキリラックマ生活―だらだらまいにちのススメ

がんばらなくても ごほうびがほしいですよね

ね。
雪乃下ナチ『となりの魔王 到来編 (ビーズログ文庫アリス)

「町内会入る時に冊子はもらいました?」
「打ち捨てられた残骸の末路を記した書か」

(※「ゴミ収集の手引き」)