時代

鮎川哲也『りら荘事件』(ISBN:9784488403140)とジョン・ディクスン・カー『四つの凶器』(ISBN:9784488118471)を読んだ。どちらもおもしろいミステリです。りら荘の警察、ちょっと、ずいぶん、かなり、おかしいほど、無能だろ!とは思いますが……。犯人わからずともちょっとは殺人を止めて!
しかし前からふしぎに思っているんですが、クリスティーとかカーとかの戦前のミステリにはまったく古さを感じないのに、日本の戦後のミステリには古さ……というか、時代が隔たっているのを感じるのはなぜなのか。「りら荘」、1958年、「四つの凶器」、1937年である。
まあ、たんじゅんに、文章が新しい。ほとんど新しい訳で読んでいるので。
登場人物名がカタカナだと、それだけで、ある種の「ファンタジー」枠に入る気がする。私の中で。加えて、舞台が、使用人がふつうにいるお屋敷だったりすると、もう、別世界ですからね! 古いも新しいもない、異世界に時代はない。
舞台が日本だど、風俗、生活習慣の違いが、場所の違いではなく時代の違いとして感じられる。
古い新しいの感覚って、ふしぎなもので、「電話がない」のは、場合によっては、違和感がないかもしれない。でも、「ポケベルがある」のは古いと感じる。それも、ポケベル現役時代を知らない世代だと、感じ方が違うだろう。

それはさておき、もっとも違うのは、社会においての女性の役割ではないかと思った。作者の女性観というわけではないな……。
「りら荘」で、男子厨房に立ち入らず、というシーンがある。朝、おなかすいてどーしようもない、というのに、女性が起きてくるのをひたすら待つのである。コーヒーはいれているし、女性をたたき起こすんでもないんだけど、でも待つ。じぶんではやらない。そのことを、作中の人々も、読者も、ふしぎに思わない。……思わなかったんだろうと思われる、というあたりが、時代を感じさせるんだよなあ。
個々の人物造形、という点では、むしろ、尖っているような……。
でも、英国のお屋敷の使用人だって、性別で職掌がはっきりわかれているんですがね……それはいいのか……。

ジョン・ディクスン・カー『皇帝のかぎ煙草入れ』(ISBN:9784488118327)で、女に「過去の男」がいるのは許せん、言語道断だが、男に過去の女どころか現在進行中の浮気相手がいようと男はそういうもんなんだから許せよ、というか、許されなきゃいけないとも思ってない罪悪感なしのおしつけをしてくる男がおりまして、女性視点の話ということもあり、たいへん、憤懣やるかたねーっていうか、むかつく!のです。で、それ、読者にそういう気をおこさせようとして書いてる、はず。社会に、男だろうが女だろうが浮気はダメ、という素地があるのが前提。同じ時代の日本だったらそのへん違うだろうな、と思う。
ただし、カー本人はけっこう浮気してたようですがな!(『死が二人をわかつまで』(ISBN:4336038414)解説より)
そして『皇帝のかぎ煙草入れ』にはこういうシーンもある。

 人間誰しも、特にこれといった理由もないのにすべてがまずい方向へ転がる日というのが必ずある。男より女のほうがそういう経験は多いだろう。最初は朝食を作っているときに目玉焼きがつぶれるといった、災いとまでは言えなくても女にとって腹立たしい出来事から始まる。次は客間でなにか壊してしまい、それから先は気の滅入ることばかりがどんどん重なっていくのだ。冬眠から突然目覚めた蛇に噛まれたようなもので、家庭内のこまごました問題が一度に降りかかってくる。無生物にまでよこしまな悪魔が乗り移ったように思い始めると、たまりにたまった怒りはついに噴出し、「わたしがいったいなにをしたっていうの?」とやりきれない気分になるだろう。

カーは、作中恋愛度が高いので、男と女は同じに書かない。同じに書いちゃったら小説はつまらない。