ふとした疑問

人の顔を何十人か合成すると、元素材がどんな顔であっても「美人」になるっていいますけど、声バージョンでも同じかな。
特徴のない声、つまり不快感を与えない声になるだろうとは思うけど、いわゆるいい声、「美声」とは違う気がする。
顔の場合でも、「魅力的な顔」はまた別だ、とはいえるだろうけど……。うーん、「特徴のない顔」は「美人」といえるけど、「特徴のない声」は「美声」と呼べない。たぶん。

選挙カーが走ってるのです。この場合は、「特徴のない声」のほうが需要があるかなあ、ウグイス嬢。でも「嬢」っていうからには女声は前提条件なのね。
「さわやかなスポーツマンの」とか言い出すのでなんで笑いをとりにくるんだ、と思った。
なんで笑いをとりにこられてると思うんだ……。

予想しない

(昨日は休みでしたが)今日の職場で元号の話題は出ませんでした。
おしゃべりの時間がなかったともいう。
ところで昨年度始まりに、「今年度はあまり働かないようにするので赤字になる」という目標というか予想というか予言を書いた(気がする)のですが、きっちり黒字に終わりました。なぜ。まあ働いたんですけど、それ以前に、「定期的な収入さえあれば、その範囲内で生活できるように調整してしまう性質」がものをいっている。しかしこの性質の由来が我ながらわからん。家計簿、というか当時としてはおこづかい帳ですけど、たぶん小学校の終わりごろからつけてますが、これも「つけずにいられない」のです。これもなぜなのかわからん。母はつけてなかったし。
しかし今年度は予想がたちません。今年中に、勤務先が変わるか、勤務地が変わるか、職務内容が変わるか、そのまま辞めてひきこもるか、なんかします。どうなるかわからないけど、変わるということだけは確定です。それは職場の都合なので。どうしたいか考えておいてねと上にも言われてますが、どういう選択肢があるのかもいまのところわからないので、考えてません。考えません。というか、私の希望でいったらひきこもりですがな……。でも一度すっぱり辞めちゃうと再び動き出すときにエネルギーが要るので、低空飛行を維持したいところ。だけど、あー……。
(考えないといいつつ考えている)

「なにかが変わる」ことに対して、「楽しみ」よりも「めんどう」が先立つって、年齢のせいか、もともとか。
うーん、そうだな、子どものころ、クラス替えって苦手でもきらいでもなかったな。じぶんからは話しかけないのに、友達ができなくて困るってこと、ぜんぜんなかったからな。なんでだ。周りがよっぽどやさしかったのか……。
大人になってからは、友達、できない。ああ……。
いや、友達の有無が問題ではないが。「めんどう」なのは。そして、「楽しみ」を見いだそうとすればできます、し、なんとでもなるわなー、って感覚も持ってますので、そのへんは大人なので、ええ、大人なので。いままでなんとかなってきた、という実績があります。その内容はともかく。
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はてなブログのお絵かき機能って、フォトライフとは別なんだ……いま知った……)

クワコー的なる概念

というわけで、奥泉光ゆるキャラの恐怖 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活3』(ISBN:9784163909967)、読み終わりました。癒し系。いや、オビには「脱力系ミステリー」って書いてあります。
こう、生きていてだいじょうぶ、って気分になりますよ……。

「でもでもでも、ウスゲマンと島木冬恒、どっちがセメなのかな?」
「それはウスゲマンだろう」
「断然ウスゲマンだよ。下克上パターン」
「島木冬恒のオヤジウケ」
「ウスゲマンの敬語セメが炸裂」
「やっぱそうなるか」
「それがまあ自然だよね」
「自然だね」
「自然、自然」
 自然という言葉は近代のはじまりに nature の訳語として採用された。その時点では、まさかこんな文脈で使われるとは自然も思っていなかっただろうなと、もはや遠い昔と思える大学生時代、自然主義文学をテーマに卒業論文を書いたクワコーは考えつつ、男二人で研究室に籠ると聞いた瞬間にBLが当然のように前提されるあたり、さすがはたらちね文芸部だと、あらためて納得していると、ギャル早田が、ちょっと見にいってみる? といい出したからあわてた。

早くもクワコーはキノコ者に特有の秘密主義を自分のものにしつつあった。この種のケチな精神はクワコー生来のものであり、その意味で、キノコを採るために生まれてきた人間であるとしてあながち的外れではないのであった。

しかし、クワコー先生の日常がゆるいかっていったら、まったくそんなことはなくけっこうハードなのであった。まったく真似はできない。っていうかセミは食べたくない。