「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うこと

以前に言及した「コラム: 常識とは」では、こんな風に書かれている。

なぜ「なぜ人を殺すのは悪いことなのか」と問うてはいけないのか。これは自分で答えを出すべき問題だからである。答えを知ることが重要なのではなく、自分なりに理由を考えることが重要だからである。だから、正確には、「なぜ人を殺すのは悪いことなのか」と問うところまでは問題ない。それを他人に質問するから問題なのだ。自分で答えを出さなければ意味がない。

私は「なぜ人を殺してはいけないのか」とか「なぜ勉強しなければならないのか」とか、大人に訊くような子どもではありませんでした(「子ども」のうちに訊いとけばよかった、とか思う)。前者についてはそういうことを考えてなかったからだと思いますけど、後者については、たぶん、答えを期待していなかったからです。べんきょーできるほうが有利なようにシャカイはなっているのだ、と思っていて、「自分のため」だとかいうのは何かを取り繕っているのだ、と思っていた。そういうの以外の、「おもしろい」答えが返ってくるとは、ぜんぜん期待してなかった。だからわざわざ訊かない。
大人が困るようなことを、大人が困ると知っていて訊く子どもっていうのは、じつはまだかわいいものだと思う。それでも大人の反応を期待しているのだから。期待しなくなると、訊かない。「ものわかり」がよくなる。訊かないことに慣れてしまうと、「なんで?」って訊くのが、難しくなる……。


さて、「なぜ人を殺してはいけないのか」に対する質問返しとして、いまのところ、ふたつ考えている。

  • あなたはなぜ「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うのか?
  • あなたはなぜ人を殺さないのか?

……自分で答えます。
なぜ「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うのか――趣味
私はなぜ人を殺さないのか――めんどくさいから
……。
後者については、いちばん大きな理由(「理由」なんですかそれは……)は「めんどくさい」だと思うのですけど、いろいろひっくるめると、たまたまなんじゃないかな……と思う。私は他人に対して強い感情を持つことが少ないので、「殺してえ……」ってこと自体が、ないですけど、そう思うことがあったとしても、目の前に相手がいないとか、近くに凶器がないとかで、殺さないで済んでる。自分に殺意がないとしても、殺されそうになったら抵抗しますし、事故に遭って他人を盾にして助かりそうなものなら盾にするだろうな、とも思うのですけど、さいわいにしていままでそういう経験がありません。たまたま、そういうことがなかった。つまり、私が人を殺したことがないのは、私が殺人を悪だと思っているからではない、と、私は考えているのです。そういうことをぐだぐだ考えているうちに、「殺人を悪だと思っているかどうか」はどうでもいいんじゃね?という気がしてきて、つまり私はいまのところ特に殺人を悪だとは感じていないと思います。実際に殺さなければ、悪だと感じていないとしても問題ない。前掲コラムでは「問題だ」といっていて、まあ、「社会」の人がそう言うってことは、理解しますけれども。理解はするけど、遠い。
で、すでに人を殺したことのある人に訊く場合、「あなたはなぜ人を殺したのか?」になりますけど、こうすると、意味合いが違いますね。