追悼記事になってません(ので、しめやかな気分になりたくてキーワードをたどってきた方はご注意ください)。

久世光彦氏が亡くなったそうです、ね。
私にとっては、小説家、です。そんなにたくさんは読んでませんけど、濃く、読んでます。
なんともこう、色っぽい、艶っぽい、……ええっと、すごいんですよ。「ひゃー」とか「うへー」とか「うぎゃー」とか、そんな感じで読めます(褒めことばっすか、それ)。
蕭々館日録 (中公文庫)』が好きですよ、『蕭々館日録』、『蕭々館日録』でお願いします(何を)。妄想力が非常にそそられますよ。ええ、いいっすよ……。

大人の男たちは九鬼さんの〈アトモスフェア〉を、知性だとか教養だとか、兎角難しく意味ありげに考えたがるが、女には一目でわかる。何のことはない、それは〈色気〉なのだ。――この世でいちばん上座に座るのは、文学よりもマルキシズムよりも、〈色気〉だとあたしは思う。

あたしは父さまと母さまに一人だけ可愛がられて、身勝手で自分のことしか考えない、驕慢な女に育っていくのだ。でなければ、女に生れた甲斐がない。――口に出さないだけで、世の女の子はみんなそう思っている。

自分を上等だと思っているわけでは決してないが、文章の話とおなじで、人に紛れるような子ではありたくない。――あたしは、あたしだ。

気が遠くなりながら、あたしは考える。――九鬼さんの〈罪〉って何なのだろう。九鬼さんは、何という名の罪人なのだろう。九鬼さんが冷飯草履でトボトボ夕日の道をいくのなら、あたしもこうして抱かれたまま、どこまでもいこう。あたしの赤い着物は、冬枯れの野の一点の彩りぐらいにはなるだろう。

――蝶になれないあたしは、それでもあの蝶になりたいと思った。

九鬼さんの本を枕にすると、九鬼さんの声が聞こえてくるような気がする。――あたしは、九鬼さんの声は耳元で聞こえるものだと思っている。一つか二つのころから、あたしは九鬼さんに抱かれて、あの低い吐息みたいな囁きを聞いて育った。

いいでしょう、くるでしょう。この語り手は五歳の女の子ですから。幼女とおじさん……! いや、九鬼さんは三十いくつかだったからおじさんではないですけども。そして彼女も幼女と呼ぶにはあれっすけど。……前にいくつか書評を読んでみたらぜんぜん読んでるとこが違ってて、でもいいのだこれで、この世でいちばん上座に座るのは、文学よりもマルキシズムよりも、〈色気〉……!
あとね、『卑弥呼』っすね、『卑弥呼』。可愛いんですって、ええ、もう……。

「そのころからだったわ、あの人が誇りの欠片もない女たちと遊びはじめたのは。結局、自信がなかったのね、二人とも。私は自信がなかったから、ガラス細工みたいな、光るだけで脆いプライドを自分で鎧ったし、あの人はあの人で、気遣いも理屈も要らない女たちの方が楽だと思うようになった――ユウコさん、女の誇りって何だろう?」

「――」

「私はね、パンツ一枚のことだと思う。いまになってそう思う」

 お祖母ちゃんが言っていた。――昔は戦争というものがあって、若者たちの方が父や母を置いて先に死んでいった。住み慣れた町や村が戦場になり、襲いかかる火の群れは、年寄りや子供の区別なく焼き尽くした。死は年齢の順ではなく、縄跳びやビー玉をして遊ぶ子たちの背にも、死がおんぶお化けみたいに張りついていた。だから、人を好きになるのには覚悟が要った。今日好きになっても、明日また逢う約束ができなかった。それでも人は、人を好きになる。あるいは――だから人は、人を好きになる。

私の脳は乱歩というとスキップ、スキップといえば乱歩という連想が強く働くようにできているのですけど、それはすべて『一九三四年冬‐乱歩』のこの一文のせいです。

途端に幸福な気持ちになって、乱歩は兵児帯を引きずりながらスキップして風呂場に走り、浴槽に熱い湯を注ぐ。

……どーよ、どーしてくれよう(何)。


ほんとにぜんぜん追悼記事じゃない。でも、小説は、読んで幸せになればいいのだ。どうせならこれを機会に読みましょう。