死に関するみっつの話

知ってた人が死ぬと、へんな感じがするのでした。へん、というか、不思議、というか。
人は死ぬのだなあ、と。
……。
私は、自分が死ぬのだということをわかってないということはわかっているのだけれど、他の人とか犬とか猫とかは、死ぬ、ということをわかっているつもりでいて、やっぱりわかってない、のかも。なんともまあ、いちいち、不思議だと感じる。

自殺「される」こと

先日、知人が自殺したのですけど。
やっぱりへんな感じがしました。自殺だったからってわけじゃなくて、自殺だろうとなんだろうと、死は死なわけで、その人がいなくなった跡というのは、もう、ふつうに、均されてしまってるのです。私程度の薄い知り合いには、もう跡がわからない。突然だったのに、とてもふつうに、平常通り、処理された。人の心の中ではわからないですけど。でも、外見的な経過としては、なんだか、ふつうだった……ですけど。
借金があったらしくて、「でも、死ぬことはなかったのに。自己破産するとか」と、その話をしらせてくれた人が言ったので、「そうですね、ひとりだったらなんとかなりそうな気がしますけどね」って私も答えたのですけど、言ってしまってからとてもむなしい、寒々しい気分になりました。つまんないこと言ったな、って。そうやって世間話として消化してしまうことの、罪悪感……ではないと思うけど……居心地悪い。「死ぬことはなかったのに」って、そのことばが向かう先がないので、呆然とするような。「死ぬことはなかったのに」って、私も反射的に思ってしまったけれど、それが私の基準でしかないこともわかっているし。だから自殺はきらいなんですよ。なんだか腹立たしい。
だからって、「だからしてはいけない」にはならないのですけど。
「自殺される」とも表現することからわかるように、誰かが自殺すると、こっちが被害者のように感じてしまう感覚がある、と思う。いや、今回のでそう思ったのではなくて、以前に、虚構と現実をごっちゃにして考えた結果ですが。でも、完全な被害者でもない、と、わかってしまう。そういうもやもやが、「自殺ダメ」につながってるような気がする。……あと、かまってもらいたくて自殺をほのめかす人への苛立ち、も、いっしょくたにされてるかも。

作家の死

作家――(私の好きな)ものをつくる人の死、というのは、知ってる人の死とは違って、「もったいない」とか、感じますね。別に、その「人」を知ってるわけでも、好きなわけでもないので、「ご冥福を祈ります」とか、素直に書きにくい(ので、書かなかった)。私にとっての作家の死というのは、その作家が作品を発表しなくなったとき――かと前は思ってたけど、違うと気づいた、私がその作家の作品に興味を失ったとき、だろう。だから「もったいない」は「もったいない」でも、まだ死んでないともいえるわけで。
そもそも、会うことのない世界の人だとか、思ってますし。私はあんまり作家に会いたいとか思わないのですけど、百鬼園先生(内田百輭のこと)には会ってみたいです。授業を受けたいというか。怒られそうですけど。なんか知らんけど怒られそう、だけど、怒られてみたい……(Mっすか)。でも、死んでんですよね、とっくに。私が先生の存在を知ったときにはすでに。死んでるって知ってても、その私の会ってみたいって気持ちには、かわりがないのでした。なんだそれ。まあ、先生ご自身が、そういうキャラでもありますけど……。どうせ生きてたとしても会う機会なんてないから同じだ、ということですか。

死ぬ前の準備

知人Kさんの親戚の話ですけど。中学生の子どもがいるような若い人だったのですが、癌で死ぬ前に、自分の持ち物の整理をしていたらしいのですよ。それを私はEさんから聞いて「それはまたずいぶんしっかりした人ですねえ」って言ったのです。Eさんは、「うん、あたしもそう思ったんだけど、Kさんは『どうして生きようとしなかったんだ』って。まあ、Kさんがそう思うならそれもいいかと思って、『そう?』って相槌うつだけにしたんだけど」。
どんなに生きようとしても死ぬときゃ死ぬよなあ、と思うし、持ち物を整理することを「あきらめ」だとも思わないけど、身近にいる人がそのおこないに割りきれなさを感じてしまうのもあると思うし、それをそういうなじるようなことばでせめて吐き出してるのかもしれなくて、だから私がKさんと話していたとしても、「そう?」になっちゃうだろうなあ、と。でも、「そう?」のあとになんか言うことがないのかって、こっちのほうにも割りきれなさがうつっちゃってたかも。とか想像してしまった時点ですでに、割りきれなさがうつっちゃってるような……。