世界の外、「世界の外」の外、

「この世界」は「現実の世界」ではないのかもしれない、つくられた世界なのかもしれない、という考え方をはじめて知ったとき、すごくショックを受けた、と思う。おぼえてないけど。自分で思いつきはしなかっただろう、とは思う。まんがか小説だろう。
いつのまにかそういう新鮮な驚きを失ってしまっていたなあ、と。驚きというか不安なんですけど。不安なんだけれど、それを失ってしまったのはちょっともったいない。なんだっていまの私はこんなに安定しているかな。そんなに、「これが現実」という確信を持ててしまっているのか。それとも、「現実」かどうかなんてどうでもいいのか。自分でわからない。
「すべては脳が情報を受け取り判断する、だから世界のありのままを見ることはできない」――けれど、その「すべては脳」ということさえ、自分自身で確かめたことではない。そう言われている、ということを、なんとなく信じているだけだ。
この世界で死んで、そして目覚めたとしたら、もとの世界が仮想だ、とも限らない。新しい世界は死後の世界かもしれない。どっちが内か外か、っていうものでもなく、並列している世界。目覚めては違う世界に行く、という世界観。
……うむ、まあ、「現実」の定義次第、になるのかな。他に世界があろうとも、認知できない以上、そっちが「現実」だ、などといってみたところで意味がない。では、なにかの拍子に認知できてしまったとしたら? そうしたら、新たに認知した世界をひっくるめて、「現実」と定義し直す。そしてやっぱり、それ以外のことはわからない。
ひとが「すべて」を知ることができないのは、「これがすべてだ」と確信できないからだ。ここまで知ればじゅうぶんだ、と、満足しない。それでは、人間の好奇心、想像力は、無限である、といえるだろうか? 少しずつ、進んでいく、その先が無限だろうか?

「なぜかは知らないけど、神は人間に好奇心という起爆剤を与えたんだ。人間が得た最大のギフトは知能じゃない、好奇心だ。好奇心、それ自体が目的となって、人間は冒険を続ける。好奇心が、理性も倫理も道徳も飲み込み、人間をそれまで見たこともない地平へと押しやる。その対象が宇宙であれ、生命であれ、歴史であれ」


……この作品は「ぎゃふん」だった……。ぜんっぜん、話をおぼえてません(実家にあるので確かめてない)が、「ぎゃふん」っていうのだけは、おぼえている。