「ふつう」という呪い

この呪いには二種類あって、ひとつは「ふつうでしかない」という呪い、もうひとつは「ふつうであれない」という呪いです。
厄介なのは、両方、同時にかかってしまう、ということです。器用ですね。
自分でも、自分が「ふつう」なんだか「ふつう」でないのか、「ふつう」でいたいのか「ふつう」でいたくないのか、わからない、という。
実際、ある面ではマジョリティで、ある面ではマイノリティなのです。すべての面でマジョリティであったり、すべての面でマイノリティであったりしたら、そっちのほうがよほど珍しい。
というわけで、「ふつう」だったり「ふつう」じゃなかったり、そのことに安堵したり不安になったり、ということ自体が、「ふつう」なんである。人間が群れで生きる生き物だから、こういう性質になっているんだと思うけど……群れの中で協調しようとするのと、群れの中でもよい地位につこうとするのと。
それでも、とりあえず、千年前の人間よりは、現代人のほうが、「ふつうでない」こと・人を、受け入れやすくなっているのではないかと想像するけれど。昔のほうが、「ふつうでない」ことは命に関わる問題だったんじゃないかと。資源の問題で。群れの協調を乱すことが死活問題だった、というのもあるけど、その他の要因でどうしても間引きしなくちゃならないときに、間引きの理由が必要で、その理由として「ふつうでない」ってことが使われた……ってことがないかな。思いつきだけど。だから、心が広くなったとか、そういうのじゃない……。いや、これは、いまでもぜんぜん残ってる問題だよなあ、私のまわりでは資源が足りてるので、のんきにかまえてるけど……。
話を戻す。
で、私も、「ふつう」であるかどうかを気にする、「ふつう」の人なのですよ、ざんねんながら。……そう、残念だと思うところが強いけれど、でも目立ちたくはないし、とはいってもいざ目立つようなことになってもそれほど頓着しないようなところもあり、自分にとって自分が特別であることはわかっているからまあいいか、とか言いつつ、カテゴリにわけいりそうになると思わずよけて通ろうとしてよけきれなかったりとか、まあ、めんどくさいのです、めんどくさい自意識! けど許容量いっぱいいっぱいってわけでもないから、そういう自分とはあんまり向き合いたくないなあとか思いつつ、自分とつきあっていけてます、けど……いけてるか……? こうやって自分語りするところがなんだかアレだよ。
さて、加藤元浩Q.E.D.証明終了(28) (講談社コミックス月刊マガジン)』の「人間花火」では、

「お前は特別な人間ではなく大勢の中の一人にすぎない」

ということを示すために――あるいは、大勢の中の一人におとしこむために――その「症状」に名前をつけています。それは「ツポビラウスキー症候群」というのです
「ふつう」とは画されているだろう、けれど、唯一ではない。
名前をつける、という呪い。
……名前をつけなければ、唯一でいられるのかというと、そうでもないようですが……自分の形に捕まるともいっています。いちばんに自分を縛るのは、やっぱり、自分なのかな……めんどくさいな。むー。