「ねー、ミルグラムの実験って知ってる?」
「知らない、なにそれ?」
「うわーい、やろう、やろう!」
「だからなにそれ?」
「トラウマになるんだよう、おもしろいんだよう」
「僕がトラウマになるの?」
「そうそう」
「……なんかむちゃくちゃ思惑がだだもれのような気がするんだけど、だいじょうぶ?」
「……あっ!?」
「っていうか、なに読んだの、それ? 貸して」
「あ、うん、加藤元浩の『C.M.B.森羅博物館の事件目録(8) (講談社コミックス月刊マガジン)』だけど、はい」
「……」(読んでる)
「……あ、あれっ?」
「ふーん、わかった、おもしろいね」
「……」
「……」
「え、それだけ? せっかく僕をだまくらかして読んだんだから、読者さん向けの解説してよ」
「ひと聞きわるいなあ、だましてないよ、ってか僕は解説係?」
「そーでしょー」
「じゃ、それこそ、模擬実験しようよ」
「あ、じゃあ僕は生徒役、君は研究者役ね、性格わるいと似合うからね」
「へえ〜、君はもともとその性格わるい役をやるつもりだったんじゃ?」
「で、もうひとり、あわれな教師役が……あっ!」
「え、なに?」
「うん、ちょっと、協力して、あのねえ……」
「まった、説明は僕がしなくちゃでしょ、えーとね、ちょっとした実験なの、協力してくれる?」
「うん、いいよ〜」
「君には教師として、こっちの部屋にいる生徒の子に問題を出してほしいんだよ」
(A:研究者、B:生徒役、C:教師役)
「うん」
「で、生徒の子が間違ったら、罰としてこのボタンを押すの、電気流れるから」
「えっ、だいじょうぶなの?」
「うんうん、で、電圧がだんだん上がっていくから」
「ええっ、だいじょうぶなのっ?」
「学習と罰に関する実験なんだよ」
「え、うーん……」
「じゃあ始めて、はい」
「えーと、じゃあ、問題1……」
(中略)
「あ、また間違ったね」
「ボタン押すよー」
「ぎゃー!」(ドンドン壁をたたく)
「ふぎゃっ、もうやめようよ!」
「だいじょうぶ、君には責任ないから、続けて」
「ふえー、うー、問題17……」
「あ、また間違った」
「ぼ、ボタン……」
「ぎゃ――――!!!!」(バタッ)
「うわー!!」
「……」
「……」
「……」
「……って、ええええっっ」(バタバタ)
「……なーんちゃって、電気なんて流されてませんでしたー」
「てやああああ!!」
「ぎゃー!」(バタッ)
「……あー、行っちゃった……短い足でせいいっぱいとびげったあたりにあのひとの怒りのほどがあらわれているよね……」
「……」
「て、わけで、こういう実験なんですよ、ほんとうの被験者はさっきのひと」
「……」
「被験者がどこでボタンを押すのをやめられるかを調べるのがほんとうの目的なんです」
「……」
「おっそろしいことに、3分の2の人が、命の危険があると警告された最大電圧まできてもボタンを押すのをやめられなかったっていうんですねえ〜」
「……」
「詳しくはwikipedia:ミルグラム実験をどうぞ」
「……」
「で、こっちのひとはだいじょうぶ?」
「なんで僕だけ蹴られるの!」(がばっ)
「おっ、復活した! むかついたんじゃないの? 顔が」
「顔はおんなじだよ!」
「違うって前に自分で言った……」
「トラウマになってないっぽいし!」
「まあ、僕ら、人間じゃないからね……それにしても人間おそろしいね、3分の2だよ?」
「それはどうでもいいんだよ!」
「え、どうでもいいの?」
「いいの! そんなの、人間が知ったとしても、たいしてショックなことじゃないよ、他人の3分の2がひとの命なんてどうでもいい人間だなんてことは!」
「そうかな〜〜?」
「でも、実際に実験台にされちゃったひとにとっては、とってもショックなことだよ!」
「ああ、そっちか……」
「そうなの、実験台にされたんじゃなければ、自分は3分の1のほうだって思うんだよ、きっと! もっと割合が低かったとしても、そっちだろうって心の底では思うんだよ!」
「そう? そうかな……」
「うん、まんがでは、こう言ってるんだよね……つまり人はその場の雰囲気に行動を支配され、たとえ相手に死の危険があってもそこから逃れることはできない。人の倫理感はブレーキにならないんだよ
」
「うん」
「でもさあ、ボタンを押すのをやめる人とやめない人がいるってことは、みんなが同じ行動をとるわけじゃないってことで、それを『支配されている』って言う?」
「まあ、選択肢がないわけじゃないことはたしかだね」
「そう、そんなの、わかるじゃん、3分の2になっちゃったひとでも、わかるでしょう? 多数派だからって、それが仕方ないことだって、思える?」
「罪悪感はあるだろうね、たいていのひとには……そうだ、あのさ」
「うん」
「事後に罪悪感があるだろうってのはわかるけど、でもそれって嘘だったわけで騙されたっていう怒りもあるだろうしそのへんのフォローはどうしたんだろうってのもあるけど、それはさておき」
「前置きが長いよ」
「その実験の最中には罪悪感ってあるのかな、わるいことだって、そういう判断力がありつつ踏みとどまれないのか、それともそんなのもわかんなくなっちゃうのか」
「そう、それ、わかんないんだよ、想像じゃ、わかんないよね……だから君にやって、って」
「僕じゃサンプルにならないってば……自分で試せばいいじゃん」
「どうやって! だって僕、もうタネ知っちゃってるんだし」
「シチュエーションは変えて、さ……ああ、そうだ、こういう実験があるって知っているグループと、知らないグループで、行動が変わるのかっていうのも実験してほしいところだよね」
「ああ……人間の行動の特徴を知ること――知識は実践に役立つかっていう疑問かな」
「うん」
「でも、実験でわかることにも限界があるよね、当然」
「いや、まあ、当然」
「それが実験だって見破られることによって、実験のデータ上は『善く』なったとしても、現実ではわかんないよね」
「ああ、だからさ、それがさっきの問いと結びつくんじゃないの」
「さっきって、どれ?」
「わるいことかどうかの判断もできなくなるのか、わるいことだとわかっていても流されてしまうのか」
「あ、実験だと見破れるならば、判断力は残っていると推定できる?」
「そうそう」
「まあ、わるいことだとわかっていて踏みとどまれないってのは、まさに人の倫理感はブレーキにならない
ってもんだけどね……」
「あー、どっちのほうが救いがないんだろうねえ」
「……っていうかさ、そもそも、どっちのほうが高度な判断なの?」
「うん?」
「いや、『わるいことかどうか』の判断と、『どう行動するのか』の判断、だよ」
「ああ、流されるか踏みとどまるのか、っていうのも、判断力の問題か」
「うん、別物の判断でしょ?」
「……うん、それこそ『別物』だから、どっちのほうが高度ともいえないような……」
「関係ない?」
「関係なくもないとは思うけど、……いや、人間って、『わるいこと』だからやめるの?」
「『わるいこと』だからやる、ってときもあるみたいだね」
「『わるいこと』だからやめるのも『わるいこと』だからやるのも、それは同じことだからどうでもいいんだけど」
「まあ、同じか」
「行動の根拠に据えるのかどうかってことでは、ね」
「……あんまり優先順位高くない気もするけど……」
「でも、罪悪感は不快だよね、ふつうは」
「そう考えれば優先順位は高くなる、か?」
「けど、快不快は、判断力の問題じゃない」
「ただの反射になっちゃうかな……ちょっと待って、それも違うんじゃないの?」
「なにが?」
「罪悪感を感じるのはどうして?」
「……罪悪感を感じている時点で、なんらかの判断が済んでいる、と?」
「えーと……」
「……」
「なんかわかんなくなってきたなあ、なんの話してたんだっけ?」
「ミルグラム実験……ああ、そうだ、Wikipedia読んでちょっと気づいたんだけどさ」
「うん」
「まんがのと、これ、ニュアンス違うよね」
「え、どこが?」
「権威者の指示に従う人間の心理状況を実験したもの
って書いてあるんだよ」
「まんがのほうでは……ああ、その場の雰囲気に行動を支配され
、か」
「そう、命令する者がはっきりしてないんだよ」
「……ストーリーの都合上?」
「……まあ、そうなんだろうけど……でも、そう違ってないともいえる」
「どっちだよ!」
「いや、誰が『命令する者』なのかってのが、その場の雰囲気で決まるんじゃないか、と」
「ノリで?」
「ノリで」
「……そんなもん?」
「この実験の場合、その『命令する者』は研究者だけど、つまり大学とかの研究施設で白衣着てヒゲはやしてるえらそうなおっさん、ってことでしょ?」
「ヒゲ?」
「ヒゲ」
「このヒゲはちょっと違うんじゃ……」
「じゃあ、こっち」
「……まあ、ヒゲはどうでもいいや……」
「なんで! 大事じゃん!」
「君がヒゲはやしたおっさんに弱いことはわかった」
「誤解だ!」
「それにしても、外見だけ?」
「というか、外見よりも、他のひとたちが持ち上げているってことのほうが重要だけど」
「ああ、ヒゲはけっきょくどーでもいいんだ……」
「うん、どうでもいいんだけど」
「じゃあなんでこだわるんだよ!」
「なんとなく」