ここではないどこか

三浦丈典『起こらなかった世界についての物語―アンビルト・ドローイング』が、たいへんおもしろかったです。
タイトルどおり、実現されなかった(実現するつもりのなかった)建築のドローイング集なんですけど、建築家って、絵がうまいー。(建築家以外の人もいるけど。)
そして文章もたいへんおもしろい。

「分かりやすさ」というのは対象への思い入れに反比例すると思う。どんな相手や世界であろうとも、そこに埋没しないで距離を保ちつつ、けれども注意深く見つめるということ。筆に全精力をそそぎこみながらもどこかで、絵にすぎないのだ、といっているような感覚。その重心のかけかたがブリューゲルの世界に枠組みを与えていて、これはたぶん神の目線に近い。神の目線というのは「所詮〜だ」と思う寛容さのことだ。所詮絵だ。所詮芸術だ。所詮人間だ。対峙しながらも常にその外側から包みこみ、愛着をもちながらも同時にそれをあきらめられる意志と覚悟をもっている強さ。

 簡単にいうと、それは自分を歴史の一部ととらえる感覚。頭では分かっていても、根本ではぼくの理解を超えている。歴史という概念が歴史的でない、というか、歴史を考えることが自分を知ることであり、自分と歴史の境界があいまいで、自分のことを話しているのか、お国の歴史について話しているのかがたまに分からなくなる感じ。そういう感覚が究極的に何をもたらすのかといえば、刹那とは対極の、死の真っ当さだと思う。死が連続することで生み出される歴史の生命力、あるいは自分の人生をはるかに越える時間認識というものを、本能的にもち合わせている人が、ぼくにとってのイタリア的なる人だ。フランス的でもイギリス的でもなく。

 実現すべき世界を描くというしがらみから解放された建築家には、いつも悲しみを含んだすがすがしさがある。そしてそのすがすがしさは「ここではないどこか」を描くときにすごく大切だ。なぜならもしそこに実現への媚があると、イメージに居心地のよさや親密さのようなものが含まれてしまって、それはもはや崇高な「ここではないどこか」でなくなってしまうから。そういう束縛から離れながらもリアリティを失わずにいる、という態度と技術がスコラーリの世界に威厳と安定をもたらしている。

これ読んでから、ここではないどこか、見たことのない風景を、描いてみたいと思っているんですけど、イメージが、ないんだよなあ。頭のなかだけでも、世界をつくるって、難しい。