さんねんまえ

無職でございました……。
働けるって素晴らしい。とは思いませんが、収入があるって素晴らしい。
それはともかく。
じつは、震災後に東日本に一度も行ってないのです。よい機会(?)なので、縁のない東北に行ってみよう、とは思っているのですが、なかなか。
わざわざ避けているわけではなく、ここ十年で東のほうに行ったのはたぶん三回だけ(東京二回と仙台一回)なので、そんなもんです。出不精だし……。というか、実家が関東じゃないのか……。
ひとと接するということがまったくない時期に起きたので、つまり、それについてひとと話すということがなかった。当事者でももちろんない。ということで、「自分の経験」として、震災が、ない、というのが、正直なところです。ひとと話すことがないからこその不安もあったように思いますが、その記憶もいまは遠い。いや、五親等親族が亡くなってますが(会ったことがなかった)(名前だけはおぼえてた)(基本、親戚の名前をおぼえてないという以前に知らないので、例外的な存在ではあった)(でも、生きてたとしても、将来会う機会があったかは疑問)(人と人の間の縁って、ただ血がつながってるだけじゃ足りないな)。


少し、抽象的な話をすると。
「人生が変わる」ほどの体験をしても、人間はそうそう変わらないんじゃないかな、と思った。もちろん、人生が変わるってことは人が変わるってことだ、ともいえるんだけれど、一方で、周囲が、環境が、世界がどんなに変わったところで、判断基準とか、判断方法とか、優先順位とか、――そういう、生きる方針、ってものは、変わらないし、変えられないんじゃないか、と。
震災後に、具体的ななにかに触発されたということでもなく、なんとなく、そんなことを考えてた。
でも、一年二年経つうちに、気づいた。子どもは別だ、と。子どもはきっと、たやすく変わる。変わる時期なんだから、どうとでも変わる。大人にとっては三年なんてそう長くないけど、中学なんて三年しかないんだよ。三年しかないっつーのに、アレだもんなあ……(どれ?(いや、アレでアレのアレっすよ))。


もうひとつ、抽象度の下がる話をすると。
「英雄」というのを、欲しがっちゃいかんな、と。ひとを助けて殉職した人を、讃えるのはいいけれど、英雄になっちゃうのはそれで亡くなったからで、ほんとうはだれも英雄になんかならないほうがいい。讃えるのは、その犠牲を無駄にしたくないからだけど、それが逆転して、だれかが一身に重荷を負ってくれれば他のみんなが助かるのに、って発想になってしまったらまずい。
じつのところ、「英雄」と「悪役」はその役割がおんなじなのだと思う。大衆の望みを一身に負わせ、一方で崇め奉り、他方で貶めて滅する。それですべての問題が解決する、と思わせてしまう役割。でも、どちらも、必要としてはならない、と私は思っている。