感情と記憶

本筋とは関係ないとこに反応。

そしたら、その状態で、何かイヤなことを考えてみてください。辛い想い出や悲しい記憶、思い出すだけで怒りを感じる出来事など。

……な、なにも思い出せなかった……。
いや、嫌な思い出というのはいちおうあるんだけど、嫌だったというその気持ちまで思い出すことができない。逆にいうと、「いい思い出」を思っても、楽しい気分になれない、ということだが。はじめのうちはちゃんとおぼえてるのだが、だんだん忘れていって、そのうち気持ちどころかそういうことがあった、ということ自体を忘れる。なので、「思い出」自体が少ない、たぶん。
で、小学生ぐらいのときは、「思い出の少なさ」をものごころがつくのが遅かったのだろうと思っていたのだが、中学ぐらいになると、どうもそうじゃないらしい、と気づくわけで。反芻しないから記憶が薄れていくのだとはわかったものの、なぜ反芻しないのか、それはわからなかった。……と、こういうことを考えた、ということをおぼえているのは、これは反芻しているからで、たびたびこの疑問が浮かんだということだろう。考えた時期に関しては確認のしようがないのであやしいものだが。こういうことを、誰にも話していない――と、いうことは、これまたおぼえている。
それで――感情と出来事が結びつけられていないせいなのかな、と。何か強い感情を持ったときに、同じような気持ちになった過去の出来事を想起しない。ふつうは思い出す……の、ですか? ……「ふつう」がわからないのでけっきょく比較できないー……。
そもそも記憶力が悪いのだ、という可能性もありますが。……うーん、漢字とか年号とか原子記号とかをおぼえる記憶力と、「思い出」をおぼえる記憶力は機構が別ではないかと思うので、ふつう「記憶力」といった場合に指す前者の意味での抗弁をしても仕方がない。……こーゆーことは、ちゃんと調べれば、ちゃんとした研究が見つかるよなあ。


人力検索の過去問にはあたったのだが。

……母の胎内とは、よいところらしい。だから忘れるようにできている、のか。よいところすぎるので、そこに浸っていてはこの世界で生きていけないから。

「おなかの中は、あったかくて、白くて明るくて、楽しかった。ずっとおなかの中にいたかったのに、生まれちゃった。嫌だったよ」

これ、子どもに言われたら親はショックなのではないか。「今」が楽しくない、ということなのだから。
ほんとうに記憶が残っているのかどうか、――ほんとうだとしたら、その「あたたかくて気持ちのよいところ」と、今目の前にいる母親のおなか、というのは、むしろ結びついていないような気がする。だって、「そんなところ」に自分が入っていただなんて想像できるかな。そこから「出て」はいるけど、そのときに周りは見えてないはずだし。あと、胎内にいた頃と、出た後で、記憶は連続しているはずだから、「生まれる前」だなんて表現はしないのではないか。「生まれる前」は「ない」。
あんまりつっこむのもなんですけどねー。つたない子どもの言葉を大人が勝手に神秘的に解釈して、その解釈した結果で人に話して……という感じに歪むことが多いだろう。「ほんもの」があったとしても私には判別できない。


ちょっと話は戻る。
そういうわけで私は「楽しい思い出」をつらいときのよすがにすることができないわけですが――まあ、私もだいたいいつでも楽しいひとだしなあ。年をとるほど楽になっていくな。つらいことはー……あんまり身に沁みない。小さいときも基本的にお気楽だったけど、ちょっとつらいことがあるとそれでいっぱいいっぱいになっちゃってた気がする。
あと、「つらい出来事がある」のと「生きるのがつらい」のとは、別でしょうね。とりあえず私は、「生きることそれ自体が楽しい」わけではない。楽しいことが、楽しい。なのに、なんだか世の中、「生きることそれ自体が素晴らしい」って圧力が強すぎる気がする。……あ、本気でそう思っている人もいるのか?