神頼みされるひとは

神頼みの話のつづき。
神頼みする相手が、どう思っていようと、何かを「思う」ような存在であるかどうかも、私にはどうでもいいのです。人格(?「神格」っていうと意味が違いますね)とか、意思とか、思惑とか、神様にそういうものがあるのかどうか、あるとしたらどういうものなのか――どうでもいいなあ。
「人間にはけっして神様のことなど推しはかれないから」、考えても無駄――とはいわないですけど。それをいってしまったら、私がいま、こういうことを書いていることからして無駄ですね。書いた先に、何か結論が出るとは思っていないし、期待もしてない。なので、ほんとうはこうです。「神様がどういうつもりだろうと、私の行動にはかわりがないから」。
「運命」といいかえたほうがわかりやすいかもしれない。未来は決まっている、という考え方がありますね。何をしようと、あらかじめ決められた流れからは逃れられないのだ、と。それはもう、虫が好かないのですけど、だからどうってことはない。「2005年11月14日20時12分にこの文章をおまえが書くことは私が決めたことなのだ」とか神様に教えてもらったとしても、「ふーん」っつってつづきを書きますね。まあ、教えてもらったというその言葉自体、信用するかどうか、さだかではないが……。虫が好かない、というのは、「運命」それ自体ではない。それを信じて、縛られてしまうこと。反発するのも、縛られるということだ。……以前は、「運命」それ自体が嫌だった。で、嫌だ嫌だと思っていることが嫌になったというかつまらなくなってきて、なんか変わった……のだと思う。


私にとって重要なのは、「私が『神様は聞いていてくれる』と信じること」、それだけ……のようだ。ほんとうに聞いてくれているのかどうか、知らないし、知ることもできないし、知りたいとは思わないし、……まあ、知りたくないとも思わないんですけど……なんか、関係ないんだよなあ。つまるところ、私が信じているのは「神」じゃなくって「自分」なんだろう。自意識強すぎ。