虚構世界の他人

虚構世界の人の気持ちを、すっごく考えることがある。気持ちというか、「このひとことはどういうつもりで言ったのか」みたいな、意図。それはきっと、考えれば「正解」がわかるはずだ、ってどこかで思ってるからなんだろう。ヒントは十分に与えられている、犯人当てのミステリみたいに。現実世界の人の言葉は――特に、自分にかけられた言葉は、裏読みしないようにしてるし、現にほとんど裏読みしないのですが。
でも、そうやっていっぱい想像して、考えつづけても、わからないのだ。意図に関しては、こうかもしれないって可能性だったらいくつでも思いつくけど、こうだ、という確信なんて得られないし、確信が得られることがあっても、その気持ちがわかるわけじゃない。その人のそのときの気持ちと、同じ気持ちになるわけじゃない。想像して、その想像が追いつかない、と、その追いつかなさだけを理解して、確認して――その「わからないということ」がおもしろいなー、とか、思うことがある。
ただし、これは私が素で読んでいるときです。私はまんがや小説を素で読んでいるときと、皮を被って読んでいるときがある。
……皮。
いや、ふつうの言い方だと、感情移入している、ということですが。感情移入といえるほど感情移入するわけでもない、視点人物の立場で、他のキャラクタを見る、というような。通常はこちらの読み方です。特に初読だったら、自然と皮を被ろうとします。私自身は、すごく人の気持ちのわからない、わかろうとしない、わからないということもほんとうにはわかっていない、冷たい人間――私自身はその冷たさを理解していないのだが、一般的にはそう評するのだろう――なのですが、それでも物語を読んで人の生き死にや愛憎に泣くことができるのは、そういう読み方を学習しているからです。――たぶん。いまのところはそういう解釈をしている。
で、相性が悪い作品の場合はうまく皮を被れなくて、「薄っぺらい、リアリティがない、つまらないー」などとくさすわけですが。
逆に、皮を被らなかったけど、それは皮を被らずに済んだということだ――という作品もあって。私が「好き」なのは、私の素で読んで、響く、――そういう作品です。
モノの出来もあるんだろうが、基本的には相性なんだろうなー、と思う。


思えば、「なぜ「涙するほどの感動」は、フィクションや「他人の物語」のなかにしか存在しないのですか?」の質問に答えるためにはてなのアカウントをとったのですよ私は。
虚実の区別についてはまた書きたい。