ネットにまっっったく接しない人からの素朴な疑問

「自分の日記なんか見られちゃってぐあい悪くないの?」

この日記にたまに登場する人なんですけど(というのは、私が世間話する相手はたいていこの人なので)。彼女は携帯電話もかけるのと受けるのしかできないような人なので、パソコンなんてもってのほかである。

「その、書いた文章をネットで見せるっていうのができるの?」
「はあ、できますよ」
「見られちゃってまずくないの?」
「見られてもいいものを書くんですよ」
「でもさ、こいつが嫌いとか殺してやりたいとか、そういうの人に知られちゃったら……」
「や、だから、そんなまずいことはみんな書きませんってば」
「……この間の事件の子も書いてたって聞いたけど」
「ああ、そうらしいですね」
「それって、日本全国誰でも見られるんでしょ?」
「はあ……」
「……なんで? 家族とか友達とか、そういう人に、ふだん言えないことを手紙に書くとか、そういうのだったらわかるけど、誰でも見るんでしょ、それ?」
「見れますよ」
「見られるのに、なんで書くの?」

……あんまり不思議そうに言うので、自分がすっごくへんなことをやってる気分になりましたよ……。私自身がやってるのかどうか、は訊かれませんでしたけど、こんな身近にそんなへんなことをやってる奴がいる、ということも彼女の想像の埒外だったのでしょう。仕事中だったので、ここで話は中断されてそれきりになりましたが(で、あとからよくよく考えてみて、彼女は「ほとんどの人は本名を書いていない」ってことも知らないのでは、って気づいた)。
「見られるのに、なんで書くの?」。それは、「見られるから、書く」のだけれど。
……っていう言い方をすると、「見てくれる人がいなければ書かないようなこと、本来なら書く必要のないことを書いているのか」とか、つっこまれそうですが。そうじゃなく、正確には、「見られるために、公開する」
これは、誰だってそうだと思う。なぜ書くのか、なんのために書くのか、書いたあとに何を期待しているのか、それは人それぞれだろうけど。趣味の合う人をみつけたいとか、反応をもらって考えをすすめたいとか、賞賛されたいとか、アフィリエイトで稼ぎたいとか、何らかの問題を多くの人に知ってもらってなんとかしたいとか、ダイエットや受験みたいな目標のために人から見られてるかもっていう緊張感を保ちたいとか、……目的や期待する効果、どんな人に、どのくらいの人に見てもらいたいのか、それとも必ずしも今現在誰かに見てもらう必要はないのか、それはさまざまだろうけれど。それでも、「公開するのは、見られるため」っていう一点は、共通しているはずだ。備忘録というそれだけだったら、公開する必要はないから(たとえアクセス制限しようと見せていいものといけないものの判断はしなければならない、その判断のコストを払うくらいならはじめから全部非公開にしたほうがいい)。
その根本的な「見られる」ということを、とっても不思議そうに不可解そうに言われたので、びっくりしたのです。
でも思い返してみれば私もそうだったのだ。私が「インターネット」というものに初めて触れたのは1996年の春だったからちょうど10年前。授業で、HTMLを書け、ってことだったんですが、……このときは、書くことがなくて、ほんっとーに、困ったのだ。「書きたいこと」がない、じゃなくて、「書くこと」がない、のだ。なにしろ個人サイトの存在も知らなかったし、……とにかく自分にも真似できそうなお手本ってものを知らず、書きたいこともなかったのだから。「ふつうの人」が何をどんな風に書いているのか、それによってどんな世界が広がっているのか、まったく知らなかったから、そのおもしろさもわからなかった。何かしら人の役に立つ情報を持っている人が書くものだ、と……けっこう長いこと思い込んでいたかもしれない。
いまは、知っている。いろんな人がいろんなことを書いていて、私にとっておもしろいもの、というだけでもいっぱいあるのだということを。だから、まあ、自分でも書ける。それが、楽しい。でも知らないときはほんとうに「知らなかった」のだ。
不思議に思われて驚いたけど、考えてみればたしかに「不思議な世界」なのだった。