この手で書く

前に、花村萬月が選考委員をやっている(やっていた)雑誌『Cobalt』の短編小説新人賞について(というか選評について)書きましたが、選考委員交代ってことで、後任の三浦しをんさんとの「組長と姐さん」対談が載ってたので立ち読み(たまには買え)(っていうかなんで花村萬月は「花村萬月」で三浦しをんは「三浦しをんさん」なんだよ(なんとなく))。
で、手書きでやれ、とはよく言われてることですが、その理由として、書き直しがしにくいから、自然と書く前によく考える、書き流せない、というようなことを挙げていて、ようやくわかった。というよりいままで理由を考えてなかった、というか理由があると思ってなかったっぽい。もっと……根性の話かと。理由を考えつかないことよりも、理由を考えようとしないことのほうが、ダメだ。私が。
花村萬月公式サイトでも、選考についていろいろ書いてらっしゃるので、小説家志望の人は読むといいと思います。……ここって、過去ログ残してないのかな?

 独自の視点というのは、常識を疑ってみること。あるいは、小説を書くということは、道徳を壊すこと。
 おそらくは、悪を描けるということにこそ、小説の、虚構の本質的な機能があるのです。

 文章を書くときも、常に律動を意識しなさい。筋書き以前の問題です。そして優れた才能の持ち主は、幾つか作品を書くうちに、自己の内なる律動に気付くものです。語り口、というものを意識する能力のある者こそが勝者になれる。これは、たとえば私のこの文章を読んで、なるほどね──といった具合に、頭でわかっても意味がありません。それが才能の問題の残酷なところです。

さ、才能……!
私は小説家志望ではないので小説を書いてはいないのですけど。でも、書くことでわかることもあるんだろうなあ、と想像する。少なくとも、才能があるのかどうかは、わかるだろう。……わかるか? ある、場合には、「ある」でいいけど、ない場合には、どのくらい書いたら「ない」と確定していいんだろう? とか問うてみたものの、才能があるかどうかは、私自身にはどうでもいいことのような気がするな。
でも、まあ……
小説、書いてみようとは思います。いつか(←いつ!)。


昔は本の感想をノートにボールペン(万年筆ではない)で書いていたな、と思って捜索したら七冊発見。1996年7月23日に始まっている一冊目には「金賞」ってハンコが押してある。四冊目は授業のノートを流用したらしく、はじめの十数ページに数式や正弦波が書いてあるのですが、……いったいなんの授業なんだか本気でわからない……。

 光がもし縦波だとすると、波動方向と進行方向は一致していることになる。その場合、光は進行方向に対して軸対称となるから、この方向に垂直におかれた偏光板を回転しても変化は起こらないはずである。したがって、この実験から光は縦波でないことが結論される。

このへんは、何かの丸写しだと思うんだけど……そのあとで問題を解いてるっぽい形跡があり、すごいな過去の自分……物理は苦手でも要領がいいので理解しなくても問題は解けるという技!
そういえば、当時、レポートは手書きで!と指導されましたけど、あの場合の理由はなんだったんだろう。コピー防止? てわけでもないと思うけど……。
何かおもしろいこと書いてないだろうかとぱらぱらめくってみたのですけど、……うーん……あんまり。文脈をはなれて意味がわかる文章がほとんどない。「ピンクのドラえもん」ってなんだろう……「世間は知っても、常識は知らないでいていいと思う。」……ええっっ??……わかんねえよ過去の自分……。