文章表現の「意味」

一昨日の小説を読んでいるときの脳内処理の話のつづき、というかなんというか。以下、「イメージ」は「映像」の意味では使いません。
「舌打ちする」「首を横にふる」「後ずさりする」とか、明確な動作の表現ではあっても、その動作以外の「意味」がもう付随していますよね。「苛立ち」「否定あるいは拒絶」「おそれや焦り、窮地」。その動きを想像しなくても、「意味」はわかる。
もっと細かい形容にもそれぞれ「意味」がある。というか、「意味」を学習していく、なのか……。「波打つ金髪」と言われれば、まあいちおう、「波打ってるっぽい金色っぽい髪っぽい」ものが私の頭には浮かぶわけですが、そんな貧弱な脳内画像とは関わりなしに、「なんか豪奢な雰囲気の人がいる」というイメージはできる。
映像化する人でも、映像化した上でもっと抽象化したイメージを持つのではないか、と思うのですが、どうなんでしょう。……ええと、映像化しておしまい、ではなく、それについて「きれいだ」とか「かっこいい」だとか感じて、その感じたことが映像にくっついて記憶されるのではないか、と……。
で、私は「文章表現→意味」を学習してきたわけですが――「学習」が必要、ということでも、映像化する派は同じなのではないかな、と思います。なぜなら、小説のような言葉遣いを現実ではしないから。「まどろむ」って、日常で言いますか。「馥郁」も、いまだにわかりません。「馥郁たる香り」って表現する人と会ったことがないので。

その声が妙に洗練されていて、当人のぎくしゃくした外観と釣り合わない。全くはなばなしいところのない地味な下層あるいは中産階級の人たちにも、しばしば隠された教養が道楽としてひそんでいることは百も承知している神父だったが、相手の使う言葉が上等で、いささかペダントリーの気味があるのに驚かされた。男のしゃべりかたは本そっくりだったのである。

けれど、「学習」された表現だけで小説が構成されているわけではない。というか、そんな紋切り型だけの小説を読むと、「上滑ってんなー」と思いますよ。……いや、そういうのは、紋切り型の使い方が適切ではない、ということなのかもしれないけど。
……。
……というわけで、私が「小説」のどこをどう楽しんでいるのか、は説明できず……。文章が好きな作家、というと、恩田陸伊坂幸太郎を挙げます。
ちなみに、チェスタトンの文章はわかりにくい!です。これは訳文のせいではないと思う。なに言ってるんだかわからん。でも、おもしろい。ストーリーがおもしろい、というだけでなく、文章を読むこと自体を楽しめる。あれはどういう芸なんだ。


一昨日、反応しそこねたところ。

先日の米澤穂信講演会で、米澤穂信が「挿絵を使ったトリック」について語っていた。それで思うのだが、たとえば「ヒロインが黒髪であること」がトリックを暴くための手がかりになっているときに、文章中では一切ヒロインの髪の色を示さず、挿絵でのみ黒髪であることを明かしていた場合、これはアンフェアなトリックになるのだろうか。

個人的には、アンフェアだと感じると思います。悪い意味で「騙された!」と思うと思います。……ということは、私は挿絵を「作品の一部」ではなく「添え物」だと思っているようだ……。添え物としても、素敵であるにこしたことはないし、表紙買いすることもあるので、まったくどうでもいいわけではないですが。
でも、小説の作者がイラストを描いていて、描いているということが自然に、ぜったいに、わかるようになっていたとしたら――うーむ……びみょう、です。それか、藤原祐の「レジンキャストミルク」みたいに、イラストレーターが「原案協力」ともクレジットされている、とか(表紙には「原案協力」て出てないけど。「イラスト/椋本夏夜」になってる)。……つまり、通常だと作者がイラストにどのくらい関与しているかわからない、そこをはっきりさせてくれれば、アンフェアと断じにくい、かな。