流れて、積み重なって、過ぎ去って、戻ってこない

内田樹下流志向──学ばない子どもたち、働かない若者たち』。本文中には「下流」って出てこなかったような気がするのですが。タイトルつけたの編集さん?
おもしろかったです。とくに、時間について。

 つまり、起源的な意味での学びというのは、自分が何を学んでいるのかを知らず、それが何の価値や意味や有用性をもつものであるかも言えないというところから始まるものなのです。というよりむしろ、自分が何を学んでいるのか知らず、その価値や意味や有用性を言えないという当の事実こそが学びを動機づけているのです。

学ぶ前の自分と学んだ後の自分は、同じではない、変化している。学ぶことによって、変化している。だから、「その勉強がなんの役に立つのか?」の問いに、学ぶ前の人間にわかるように答えることなどできない、それは学んでみてはじめてわかることだから。
現在は、教育が「消費」になっている、という。子どもは消費者、学校は「教育サービス」の供給者。消費者たる子どもは、その商品は贖うに足るものなのか、と問う。「それはなんの役に立つのか?」。そのふるまいは、たんに商品の価値の説明をせよ、というだけでなく、その商品の価値を低く見ているよ、と示すことによって、値切り交渉をしているのだ。商品の価値を正しく理解するのが賢い消費者だから。ビジネスモデルでは、時間を勘案しない。交換は一瞬にして行われ、商品も消費者も、変わらない。が、教育は本来、そうしたものではない。「なぜ勉強しなければならないのか?」は、答えてはいけない問いなのだ――
と、いう風に、私は理解しました(本の中では、人が人の話を聞かない、自分が理解していた範囲でしか聞かない、という話もあって、上の要約が間違ってたらその実践になってて泣けるんですが)。
なるほど。「なんで勉強しなくちゃいけないの?」じゃなくて「なんで私にそんなに勉強してもらいたいの?」になってるのでは――と、私は前に書いてて――それじゃ足許みられるよ、って感じがあったんだけど、でもそこで足許みられないように、と取引の交渉をしては、ダメだ、ということらしい。


それで思い出したのが↓

教育をビジネスのことばで語ってます。いや、私はこれをはじめて読んだとき、教育の話とは気づかなくて、ブックマークのタグを見て、あれっ??と思ったんでしたが。
確かに、無時間モデルだ。子どもは自分の望みを知っていて、それは変わらない、という前提の話。そして、「人生」の「絶対の評価者」が存在する。

●回収すべきは、お金ではなく、「すばらしい人生」である。

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070125/1169695957

これ、読んだとき、「すばらしい人生」なんて要らないよー、と思った。もちろん、この「すばらしい」というのは世間や後世の評価ではなく、自分で決めるのだ、自分の価値観で決めることだ、ということは、わかっている。自分の人生を自分で評価せよ、ということだとは、わかっている。その上で、「すばらしい人生」なんて欲しくないと思う。
えーと……、私はハッピーエンドが好きなんですね、少々ぬるくても。大往生もいいもんだと思う。いろいろあったけど、まあ、よかったよかった、という終わり。でも、自分の生だけはそういうわけにはいかない。よかったよかった、なんて感想をいう間はない。「自分の人生」という作品を自分の人生をかけて完成させたところで、それをみるのは誰だろう? 少なくとも、自分ではない。
――ってね、論理で考えてるわけじゃなくて、私はもともと、わからないんですけど。人々が「自分の人生」として語っている、その感覚が。……わからないって言われたほうもわからないだろうが……。「自分の人生を俯瞰すべきではない」、ではなくて、「私は自分の人生を俯瞰できない」。
この記事が教育の話だと気づかなかった、というのは、私は自分の(長いスパンでの)望みを知らず、世の中の仕組みもよくわからず、算数や国語がどんな場面で切実に必要なのかわからないからです。自分がわからないので、それをわかるようになれよーって言っているのだと、まさに、自分で理解できる範囲で解釈した、わけです(よく読んでない……)。まさか、それを子どもに教えなさいよ、って話だとはー。む、無理。ああ、だから「大人なんていない、みんな子どもだ」とも書いてあるのか。し、親切?


さて。
無時間モデルにあまり馴染まない私ですが、じゃあ、ゆるゆると時間が流れるモデルに馴染んでいるのか、といったら、そっちはもっと遠い(夢の中だったらそういう時間が流れることもあるらしいが……)。遠いからこそ、「なぜ人は未来のことを考えるのか?」という問いが発生してしまう。これは「なぜ勉強しなければならないのか」という問いよりも変だ。
が、「なぜ」という問いを発見することも、問いをつきつけられると思わず答えを考えちゃうのも、自分を納得させたり人を説得したりしようとすることも、質問すること自体についてメタに考えるのも、どれもこれもとっても「人間らしい」行為だと思う。問うな、というのも、答えるな、というのも、無茶……というかなんというか。うまいこと言いたいじゃないですか。語り得ぬことについても語りたい。ダメと言われても語りたい。


格差の本を読むと、いつも、こう、もやもやしたものがあるのですが――、著者にはきっと、「本来あるべき社会」がわかっているのだろう。だから、「目指すべき未来」もわかっているのだろう。私にはわからない。少なくともそこに、私はいないだろう。