戦慄した

下流志向』のあとに佐々木丸美崖の館 (創元推理文庫)』を読んだのですが、その中でこんな一節がある。

就職もしないで勉強ばかりしてぜいたくの限りだ。

と、語り手の女の子がいとこの男の子をずるいと思う。勉強をすることは、ぜいたく!
この作品が発表されたのは三十年前なので……なんて時代のためではなく、この作品世界は三十年前のものではないし、古今東西こんな世界が実在したことなどございません、という別世界である。解説で若竹七海さんが「少女趣味的」と書くとおり。はまる人ははまるけど、ダメな人はどうしたってダメ、という。私はどうだったかというと、それなりに作品世界に入って違和感なく読んでいたのですが――事故だと処理された、けれど殺されたのではないかといとこみんなが疑っている、亡き美しく聡明な女性・千波の「日記」が半ばで挿入されているのですが、ここで我に返ってしまった。だってもう、ものすっごいぞ。長いが一部を引用する。

 私の記憶の底に幼い日々が流れてゆく。いとこの羨望の中で育ち、またいつしかそれを飾りながら成長してきた私。何の非もなかったはずでありいつもいとこたちに快く接したはずだった。しかしそれが実はこの上もない傲慢だったと今思う。人間どのように生きようとかならず不満や哀しみはあるはずである。完全無欠な幸福というのは存在しないのだから、私にも不満があって当然だった。いつか誰かに泣きごとの一つも並べて当然だった。しかし私はそれをしなかった。実際に何の不自由がなくても、偽ってでもそうするべきだった。何故なら人は他人の不幸を見て安心できる生き物なのだから。私の最上の幸福は他のいとこたちとの均衡を破ったのだ。あくまで幸福であくまで愛に満ちる私に窒息しそうだったのだ。何とかその無欠さに一ヶ所の穴をあけなくてはならなかったのだ。私の生き方は人をバカにしたものであり見下したものであり高慢ちきであったに違いない。もし私がこの境遇におごり俗っぽく見せびらかして生きる女の子であればそれは十分欠陥となって人々を安心させたことだろう。しかし私はそのようなものに一切興味をもたなかった。浮世からの逃避に酔うのみだった。涼子が私を、マリアさま、とからかったことがある。あの言葉は皮肉ではなく涼子の本心だったと信じている。ありとあらゆる浮世の幸福条件を揃えながらなお聖い人という考え方はひとつ間違えば最大の悪となる、それをとり巻く心によっては。

ここまで傲慢な人はなかなかいないと思う。まー、見せるつもりで書いているものだから、どこまで本心なんだかわからんのだが。しかし、この「日記」を読んだ語り手(涼子)は、さらに千波に心酔するんだよなあ。ぎゃー。さすが、別世界の住人! わからん!
で、彼女を殺した犯人のほうに共感できるのか、といったら、そっちはそっちでよくわからんぞ……。
という、すごい作品である……なんかけなしてるようにきこえるかもしれませんが。いや、うん。きらいではないよ。きらいでは、ない、が……。ううーん。とりあえず『水に描かれた館』も読みたいです。