隣りの芝生は、実際、青い。

さて、そのとき、あなたはどうするだろうか?
隣りの人に青さの秘訣を訊く。隣りの芝生を盗んでこっそり植え替える。隣りの人を追い出して引っ越す。わあー青いなあ、と感嘆する。借景できる、と喜ぶ。どうしてうちの芝生は青くないのだと悩む。隣りにこっそり除草剤を撒いて、うちのほうが青いことにする。隣りが青いと知らなかったことにする。反対側の隣りの青くない芝生と比べることにする。……
そして、あなたは、隣りどころか、百軒先の芝生まで知っていて、比べることができるのだ。このまちの一万軒の芝生のなかで、あなたの芝生は何番目です……。
――けれど、あなたにとってたいせつなのは芝生の青さなのではなく、ツバメの巣なのかもしれないし、土のやわらかさなのかもしれないし、樹の匂いなのかもしれない。
……と、いうような話、なのかなんなのか、書いているうちにわからなくなってきた→バリー・シュワルツ『なぜ選ぶたびに後悔するのか―「選択の自由」の落とし穴』。読み終わってからいろいろ考えてたので、どこまでが書いてあった内容なんだかわからなくなったので、書いてあることとないことが混じります、ので、ご注意。
さて。どれでも好きなものを選んでいい、というのは、よいことだ。選ぶ、ということ自体が楽しかったりする、し、逆に、選べない、ということがとっても不満だったりする。選べないことは、不満どころか、生きる気力すら奪うことがある。人は、選択肢を広げるようにしてきている(とりあえず、いまの、先進国は?)。たぶん、それは人の持つ知識の量とも関係していて――選択肢自体を知らなければ、それを選べないことがストレスになったりしない。
食べるもの、着るもの、住むところ。なりわい、結婚すること、その相手、子どもをつくること。読むもの、聴くもの、観るもの。信じるもの、学ぶこと。生き方。たくさんのものがあることを、私たちは、知っている。そのなかから、自分の好きな、ふさわしい、素晴らしいものを、選びたい。――もっと、選択の自由を!
一方で、選択肢は多ければいいというものではなかったりする、らしい。選ぶのがたいへんなので。比較するにも、比較の尺度もたくさんあることが多いし、尺度の多さすら分野によってはさっぱりわからなかったりする。
そうですね、パソコン、自分で買ったことがありますか? たいへんじゃなかったでした? メーカーとかOSとか。CPUの種類とかクロック数とか。メモリとかHDDとか。数字が大きければいい、というのはなんとなくわかるけど、どれだけ違えばどれだけ性能が違って、価格が違うのかとか。アプリケーションソフトは何が必要なのかとか。そもそも自分は何がしたかったんだとか。なんだかわかんなくなって、けっきょくいちばんの指針は、値段、だったりするんだよなあ。これだけ出せばきっとなんかなるはずだ、というような「保証」を買うことになる、みたいな……。いや、好きな人はいいんだろうけどさー。
で、選択がたいへんな上に、苦労して選択した結果にどれだけ満足できるか、というと。これがなかなか個人差のあることらしく。
「最高」の選択肢を求めていろいろ調べて試して考えて決断し、だけど求めるものが「最高」なので選んだあとにも他にもっといいのがあったかもしれない、と後悔しがちな「マキシマイザー」と、
「このくらいのレベル」のものが欲しいな、とはじめに決めて探して、見合ったものがあったらそれに決めて満足し、あとのことを思い煩わない「サティスファイサー」と。
……ほんとうにいつでもどこでも「マキシマイザー」だったらまともな社会生活は営めないし、基本「サティスファイサー」でも分野によっては「マキシマイザー」になったりする、ものの、傾向としては、そういうのがある。
私はあからさまに「サティスファイサー」だな、と思うものの、考えてみれば決断力は弱い。メニューを渡されてもひととおり目を通して、もう一度眺めて、さらにじっと見つめて、同席者に「決まった?」と三回くらい訊かれるほど、遅い。のですけど、後悔はしない。そういう質。性格です。しあわせになりやすいしあわせな性格。
選択、それ自体の質と、幸福度には、あまり関係がない。
客観的に、よい買い物をしましたね、よい仕事に就きましたね、と思えるようなときでも、本人は満足してないことがあって。そういうとき、本人は、もっといいものが欲しかった、のではなくて――そういう場合もあるだろうけど――もっといいものがあるかもしれないから不満なのだとしたら、なんだかなあ、と思うのですけど――このへんをつっこむのはとても難しい。バカバカしいなあ、とか、そっちのほうが損なのに、とか、思うけど、じゃあ、どうすればいいのか。それは自分の望みを自分で知らないからなんだけど、自分の望みを知る方法って?と問われると。答えられたら教祖になれるよ(なりたくはない)。
まあ、不満に感じてしまうのは、仕方ない。自分のこころは、「選べないもの」なんだよな。
うーむ。
いつも、賢い選択を、正しい選択を、しなければならない、わけではない。ということは、心にとめておいていい。
メディアに踊らされたってかまわない。広告につられたってかまわない。今日の晩飯に迷ったらみのさんに従っていい。
ひとの思惑にのったからといって、あなたのしあわせにはあまり関係がない、と思いますよ。
ゆずりたくないところだけを、ゆずらないでいれば。
……んー、むー、えーと、私自身は、全面的にひとの思惑にのっかっててもべつにいいと思っている、ような気がしてきたけど……ゆずれないところなんてあるかなあ……何がどうなろうと、私は私、で、自由!と思っている、信じている。あーあーほんとうにしあわせなひとだな! でも、創造主な神様、とか、運命、とかは、きらいなのです。が、縁、という考え方は好きかも。えん・ゆかり・えにし。……運命と、どういう違いが……? わからん奴だなあ!