文章の熱について

文章にのる感情と、伝わりやすさと、推敲と。
えーと、私は、伝えたいなら、推敲したい、と思います。願望かよ。
推敲したほうが、確実に、伝わりやすくなると思う。論理でも感情でも。
勢いにまかせて書いた文章が勢いのある文章になるわけじゃないし、
熱をもって書いた文章が熱をもつわけじゃない。
ことばは、ただの、ことば。
涙で潤みながら「感動した!」って書いても、鼻くそほじりながら「感動した!」って書いても、おんなじ。区別なんてつかない。
気持ちのまま、書いたって、その気持ちが、そのままそっくり伝わるわけじゃない。いまの、この、鼓動とか、あたたかさとか、匂いとか、そういうのが当たり前にあって、そのうえで成り立っている気持ちっていうやつを、そういうのを共有していない相手に伝えるには、共有していないんだっていう自覚を、まず、もつ必要があって、それは勢いまかせでできることじゃない。まあ、できる人もいるんだろうけど、それは才能……かなあ。
私にはできませんです。
けど、時間をおいて推敲しようとすると、気持ちの部分はついつい削っちゃうなあ。でもそれは、推敲のし方がまずいんであって、推敲することがまずいんじゃないと思う。
……いや、私はこの日記で、時間をおいて推敲してから更新したことはないんですが。なぜか。保存して、あとでまたよく考えよう、とした場合、そのままお蔵入りしちゃうんだ。あと一手間をかけてよいものにしよう、って気力がない(いままででいちばんの長文だけは、さすがにいっぺんに書いたわけじゃないけど、これも推敲はしていない、上から順番に書いていっただけ)。お蔵入りさせちゃえば、誰にもなんにも伝わらないけど、つたなくても出しとけば、もしかして誰かには届くかもしれない。ので、そっちのほうをとります。
伝えたい、というよりは、伝わればいいなあ、ぐらいの気でやってるせいもある。ものによっては、これ誰にも読まれなかったらむなしいなあ、ってのもあるけど。
伝えたい場合は、平易平明な表現で、無個性な文体を目指します。……ふつうに書いてて個性的な文体ってわけでもないし、難しげな言い回しもしない(できない)けど。もっと。誰にでも書けそうな。……って、意外と難しいのだ。ふだんは、楽に書いてるよなあ。