伝統と世代感覚と空気

伝統のあるものはよいものだ、よいものだから続いてきたのだ、よいものだから伝統があるのだ、
……と、いいます。
そうとも限らないんじゃないかな、と、ちょっと思う。
続けること、つないでいくこと、それ自体が、目的として、続いてきたのではないか、と。
内容はどうでもいい。とまではいわないけど。
連綿と続く鎖、そのひとつを自分がつなぐ、という。そうすることで、個人の死を乗り越える……というか、意識せずに済む。いや、つないでいくという意識すらなく、ただ、当たり前に。
という風に考えると、これは受け継がれる価値があるのか、とか、疑問に思った時点で、もう違う。考えた末、価値があるという結論が出たとしても。
……と、いうようなことを、2月か3月頃に考えてまして、あとで書くつもりで書いてなかったのを、昨日、梨木香歩ぐるりのこと (新潮文庫)』を読んで、思い出したのだった。

 十年程前、ある講演会場で、学校へ行かない子どもたちの孤独について話していたときのこと、質疑応答の時間になって、前の方の席で聞いていてくださった年配の男性が立ち上がり、「今の時代の大変さを言っていたようだったが、僕たちの頃は戦争中で、まず食うことが大変だった。学校は授業らしい授業もなく、僕たちは学徒動員で……。今の子たちとは比べ物にならない大変さだった。そのことについてどう思うのか」と質問された。私はまず、その人が「僕たちは」という言葉で、自分たちのことを述べた、そのことについて、「甘やかな連帯」のようなものの自覚はないか、訊いた。「僕たちの頃」、その方がそう言ったときのどことなく誇らかな調子が、何か郷愁のようなもの、宝物を見せるときのようなニュアンス、私がそのときテーマにしていた子どもたちが、望んで決して得られない何か、そしてその人自身もどこかでそれに気づいている――自分が持っている宝――それについて語りたいのだということが察せられたからであった。私はそれが確かに素晴らしい宝であること、うらやましく思うことを正直に言い、そしてその人はそれを認め、私はそれを受けて、けれど、「僕たち」「私たち」で語ることの出来ない孤独について、引き続き何か語った、と思う。

世代感覚がなくなったのは、共通して語れるアイテムの欠如ではなく、「むかしから未来へと続いていく時の流れのなか、いま、いっしょに生きている私たち」という感覚の欠如のせいではないか、とか、考えた。タテ――前後?上下?――方向の感覚が薄れたから、その垂直方向も意識されなくなった、と。
まあ、世代感覚って、いまでも、持っている人は持っているのかもしれない。わからない。
私がこの日記で「私たち」というときは、人間一般を指しているか、知識や情報を得る手段を持つ人たち、か、もう少し狭くいうと、いま読んでくれている人や読む可能性の高い人あたり、なんだと思いますが。世代で「私たち」とは認識しない。と思う。


で、昨日の空気の話につながるんだけどさ。
私が空気を読まない発言をしてもへいきなのは、喋る機会が多いのが、ひとまわりふたまわり年上の人たちばっかりなので、へんなこと言っても、世代が違うからねえ、って見過ごされてるからじゃないか、って、思ったんだけども、でも自分は世代感覚がないというのに相手にはあるように想定するのはどうよ、と。
うむ。
けっきょく、私自身がちょっとおかしなひとだと思われてなまあたたかく見守られてるだけかもしれない。あと、そもそも人数が少なすぎると、疎外される余地がない。
というか、空気読んでないっていう自覚があるってことは、読んでるんじゃないのか。読んでないフリして、相手のほうを自分にあわさせようとしているのでは。
……(否定はしない)。あっ、もしや、こういう作為こそがきらわれてるのかっ?
…………。


ところで、b:id:iru35711さんが、なんか叫んでるんですけど。

空気なんて読みたいやつには読ませとけばいいんだー!

http://b.hatena.ne.jp/iru35711/20071016#bookmark-6187532

……どしたの。