箱の中には

「ウェブ時代をゆく」欲しい!
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……で、応募方法で、

(b)応募用キーワード“「ウェブ時代をゆく」欲しい!”と共に「ウェブ時代をこう生きてみたい」というテーマでブログをお書きください。お書きいただいたブログを著者みずからが読み、「強い印象を残した」ブログの作者10名様にサイン付き書籍をプレゼントします。

とゆーのですけど、ウェブ時代って何、と思って、ウォッチしてたんですけどね……

えー、タグ名がこんなんなのは、[「ウェブ時代をゆく」欲しい!]か、[ウェブ時代をこう生きたい]にしたかったのに、文字数制限にひっかかったからです。ごめんね、へんなタグをつけちゃった人々! あと、[あとで書く]の人はもれてるかも。
しかし私はとくに展望がない。成し遂げたいことがない。


最近、部屋の片付けをしながら、器が先か、中身が先か、って考えてるんですが……。
箱にあわせて中身を選ぶのか、中身にあわせて箱を選ぶのか。
部屋に収まりきらなくなったら、中身を減らすのか、部屋を広くするのか。
自分に必要なのは何か。
部屋から発掘されるあれこれを、いちいち、要るのか、要らないのか? 大切か、大切じゃないのか? と、問う。
まあ、在宅じぶん探しである。
そういえば、ダントツに大事なものや、夢や目標がない人間は、あんまりそういうことをつきつめてやっちゃダメ、って、前に自分で書いてるよなあ……。まあ、それほどつきつめてやってるわけじゃないけど……っていうか、落ちてた封筒に五千円が入ってて、ショックだった……お金をそんな風に放置して忘れる自分に、だ。いや、確かに、家計簿が五千円合わないのは認識してたけど! それでも思い出せなかったんだからなあ……ああ、もう……。
いや、まあ、そんなことはいい。
モノをためこんでしまうのは、いつでもモノが手に入らない時代の名残り……ともいえる。食べすぎといっしょ。いつでもあるわけじゃないから、ためこんでおこうとする。自分自身はそんな時代を経験していないんだけれど。
が、いまは、けっこう、持つものを選べる。選べる以上、何を持っているか、というのは、自分が何者か、をあらわすこととなる。選べる(あるいは、選ばなければならない)ってことは、持たないことも選択のひとつとなるわけで、シンプルライフとかいう生き方もありだよね、ってことになる。モノを持つことが豊かだ、持たないことは貧しい、とは限らない、と。そして、持つものは、身体――時間や空間――に制限される。
さて、知識や情報はどうだろう?
情報を得ない仙人のよーな暮らしがナウい(古語)ぜ、とかって、いつか、流行ったりするかなあ、情報の海にうんざりしたりして……。そんなもんが流行ったりしても、矛盾なんですけど……流行るというのは、情報の海にのること。
モノを持つこと以上に、ウェブで何かを発言することは、自分は何者か、をあらわす。選択肢が広い分。たったひとことの同意や罵倒ですら、いや、発言しなくても、そこに足跡を残すだけで。たまたま、ではなく、選んだのだ、と。ほんとうはけっこうたまたまなんだけど。すべてを見て選んでいるわけではないからね。
そして、モノの所有よりはずっとゆるいとはいえ、やっぱり身体による制限っていうのは、あるんだろう。人は自分の見たいものしか見ない。自分の見たいもの、を、決定しているのは、肉体だ。
逆にいうと、人は自分の望むことしかやらないし、望む方向にしか変わらない。そして、身体の制限とは、じつは、個性のみなもとだ。
――さて、ここでの「自分」とはなんだろう?


……なんか、話がすっとんでいった……。
うーん、自分が何かをする、という気はないんだけど、世界がどう変わっていくのかには、興味があるのです。
自分という箱、世界という箱。

古くは箱というものは大切なものとか、人に見せてはならないものをしまっておくものであり、また箱の中には魂を封じこめておくことや人に幸福をもたらす力を入れておくことが出来ると考えられていた。浦島太郎の玉手箱もそうである。玉手箱は『古事記』では玉匣となっているが、玉とはすなわち魂である。箱を開けたために浦島太郎の幸は逃げてしまったわけだが、このことは上代にあっては箱が非常に貴重なものであり、かつ何か不可思議で神秘的なものとみられていたことなのであろう。