立法の原則?

日本ユニセフ協会のページを見ると、2次元規制はおまけっていうか、ついでっていうか、どさくさにまぎれてっていうか、な、扱いなのに、そこを見出しに持ってくるところがITmedia……。つーか、ざっと日本ユニセフ協会の主張を見たけど、2次元まで規制する根拠って、どこにもないよーな……。

そしてラウドマイノリティなひとびと?
前にへんな調査をやってたときにも、ちょっと書きましたが(2007年10月27日2007年10月29日2007年11月1日)。ふむ。ここでは2次元についてだけ、とりあえず(3次元単純所持の問題については考えが及んでいないので)。
「まずは2次元児童ポルノが現実の性犯罪を増加させるという根拠を示せ。話はそれからだ」
……って、ところじゃね?
科学理論のパラダイムや裁判における有罪無罪判決と同じように、現在の常識に合わないこと、一般的でないこと、リスクの高いことを主張するほうが説明責任、証明責任を持つのであって、それに反対する側は、その出された証拠に対して反論すればよく、自らの主張を証明する必要はない。と、するならば。
この場合、説明責任を持つのは規制推進派だと思う。表現の自由を制限することのほうがリスクが高いのだから。
と、いう立場を確立するためには、下手に2次元児童ポルノの効用を説こうとしないほうがいいんじゃないの、相手の土俵にのっちゃうから。
……って、気がしたんだけど、ほんとうに反論の証明の必要がないのかどうか、知らない……。こら。どういう分野の話になるの? 法哲学
でも、まあ、線引き問題にはつっこまないほうがいいんじゃないかなあ、あれはついつっこんじゃうけど、それ以前の問題だから、つっこむと話が錯綜する……。


ところで、前に引用した篤胤翁の高邁な理想と下劣極まりない妄想を共に抱けてはじめて人は人たりうるという台詞。ポルノ規制に反対して、快不快の情で政断を下すな、教育に力を入れろ、って一席ぶったときの台詞なんですが。

 ただし、篤胤の評判は悪くなった。実は童女趣味なのだ、との噂話があちこちで語られたほどであった。

 篤胤はそれに取り合わなかった。民草がその種の愚劣さにまみれる余裕こそ、高邁さとともにかれが守ろうとしたものであるからだった。世の多くの者(けして全てではない)はいつか自分の愚劣さに気づく、と同時に高邁さに疲れもする。それで良い。その二つを味わってはじめて世に気後れするところのない人が完成する、かれは心からそう信じていた。

 であるからこそ、国権がその種の問題について安易に容喙する味を覚えることを恐れていた。

 篤胤は正論と道徳はあくまでも密かに期すべきものと考えている。それが声高に唱えられるなど、国家の自殺願望を表明しているに等しい、とも。

 権力政治家として過ごしてきたかれは、育預の直衛とはまた趣の違う、国家に対する強烈な不信感を抱いているのだった。ひとつの味を覚えたとたん、ひたすらその方向に餌を探し求める飢狼のようなものだと考えている。正論と道徳に基づいた願望の規制は、いずれは正論と道徳に基づいた信念の規制につながると確信していた。疑問の余地はなかった。興亡を繰り返したいくつもの国家、覇権に手をかけながら崩れていった将家、実例は掃いて捨てるほど存在している。なにより、思想と言論の自由を保つことによって生じる害悪は、それを制限した結果生ずる害悪より常に小さい。単純な算術の問題としても絶対に手をつけるべきではなかった。