あそぶためにはたらく医者




一昨日、こんなの↑を描いたあとに、加藤元浩Q.E.D.証明終了(31) (講談社コミックス月刊マガジン)』の「眼の中の悪魔」を読んでしまって、ぎゃふん(?)と思いました。
……。
いや、こんな「想像」の話を、ある人物がしているんですよ……。

「風で白いカーテンが揺れて・・・・窓の外に若葉が見える
 老いて動けなくなった私はその病室に寝ていて 窓の外の若葉の精気を苦々しく見ている
 体中が痛むが・・・・もうすぐこの痛みを取る最後の手術が始まるんだ
 やがて時が来て 私の手術をする医者が現れる
 その医者は“私”なんだ
 『心配いらん “私”はお前だ』」
「そ・・・・それでどうなるんです?」
「どうにもならん 手術はその“自分”がやるのさ
 『金儲けが一番』『仕事は生活のために稼ぐだけ』『下手でも心がこもっていればいい』・・・・
 そう思って生きてきた人間の前にはそれぞれそういう価値観を持った医者が現れる」
「どれもイヤな医者ですね」
「文句は言えんよ 自分自身だからな」

「あそぶために働いている医者」があらわれるんだってよ!

はげしくイヤな医者だ。不安だ。文句言いたい。
けど、この話は、なんか……、一読して、因果応報譚、というのか……こう、立派な「医者」にならなければ(「医者」の部分は自分の職業に置き換えましょう)、立派な医者には出会えない、みたいな話にとらえてしまったのですけど、違いますよね。ってか、もうちょっと違った風にとったほうがおもしろいだろうな、ってことなんですけども。でも、この「医者」が自分の子どもって設定だったら、あと、命を長らえるための手術だったら因果応報譚になるんだろうけど、ずばり「自分」で、痛みを取るだけの手術なんだから、やっぱり違うと思う。これに続く台詞を考えても。
というか、「多くの人の「生」は、単なる「死の準備」に過ぎない - 「で、みちアキはどうするの?」」を思い出した。

多くの人の幸福は、よい生を送り、よい死を迎えることのうちにある。自宅、または病院のベッドの上で、愛する人や親しい人たちに囲まれたなかで世を去ることをこいねがう。ぼんやりとしか想像できていなかった自分の人生とその終焉。思い描いていたことのうちのいくつをやり遂げられただろう? しかし、まぁ、なかなかのものだったじゃないか? よくやったよ。こんなふうに平和に静かに終われるのなら、そう悪くはない。
そうやって、まさに最期の瞬間が近づいたその時になって、悪魔がやってくる。もう振り返るための時間も残されていないあなたの耳元で、そいつはこう囁く。
「なぁ、お前。ほんとうにそれでよかったと思っているのか?」
多くの人の恐れているのは、この悪魔の存在だ。こいつを追い払うため、死の床に舞い降りてこないようにするために、自分の人生そのものを供物として捧げてしまう。それが多くの人のやっていることだ。

そうじゃなくても、この話はときどき思い出すんですけど。悪魔にとり憑かれたんだ……。
いや、まあ、つまり、私は。あらわれるのが「あそぶために働いている医者」であろうと、かまわない、……と、いうのかなあ……いや、文句は言うけど、文句を言うだけで済む程度の問題だという気もするんだな。
「なぁ、お前。ほんとうにそれでよかったと思っているのか?」
……むぅ。「ほんとう」ってなに?