許す

「人間の慈悲には限度がありますわ」ウートラム夫人がわなわな震えながら言った。

「いかにも限度がある」ブラウン神父はむしろひややかに言った。「そして、その点にこそ、人間の慈悲とキリスト教の慈悲の本当の違いがあるのです。きょうあなたがたは、わたしを無慈悲と呼んでさげすまれ、すべての罪人を許さねばならぬ、と説いてたしなめられた。そのときわたしが恬として恥じぬようであったとしても、それは許していただかなくてはなりません。なぜならそのときわたしは、あなたがたが人の咎を許すのは、その咎が本当の罪ではないとお思いのときに限ってのこと、と知ってあえて賛同しなかったのです。みなさんが罪人を許すのは、その人の咎が犯罪ではなく習俗にすぎぬとお考えになるときだけなのだ。だから、みなさんは、世間の慣習として行われる離婚を大目に見るのと同じように、慣習として行われる決闘を大目に見ようとなさる。あなたがたが人を許すのは、許すほどのことが何もないからなのだ」

一昨日の散歩のときに、考えていたことなんですけど……。
あなたがたが人を許すのは、許すほどのことが何もないからなのだ。うーん、そう言われてしまうと、私は、何かをほんとうに許したことなどない、という気がしてきてしまう。時間が経って、怒りや憤りが薄れて、どうでもよくなることはあっても、それって、「許した」ってことなのか、っていうと、違うんじゃないか、って……。
「許さない」という状態を、怒りとか憎しみとか憤りとか、感情を伴ったものだと思って、「許す」っていうのを、そういう感情がなくなる状態に移行することだと、平素、なんとなく思っているようだけれど、「許す」「許さない」って、感情の問題か? 感情の問題だとすると、「許す」のほうがデフォルトになる。「する」より「しない」ほうが特別。……うーん、でも、明らかにすごく怒った顔して「許します」って言われても説得力ないよ!って思うだろうから、感情の問題ではないとはいえない。けど、きっと感情だけの問題でもない……。
例えば、痴漢に遭ったことを思い返して、現在進行形で怒れるわけでもないんだけど、じゃあ許したのかっていうと、許す必要がどこにあるんだ?とふつうに思うわけです。許さんッ!っていう状態は脱していても、「許す」という行為はしていない。(けど、この場合は、過去に遭ったある痴漢のことではなく、一般化して考えてしまっているのかもしれない。)
……私は、何かを、誰かを許そうとしたことも、ないような……。ただ、ずっと怒っているのも疲れるから、どうでもいいことだと思い込もうとする。自分のために。
「相手のため」に、許そうとしたことは、ただの一度もないと断言できる。こころがせまい。
まあ、「許す」のは、上の立場でしかできないこと、という認識があるせいもある、けど。
司祭にはなれません。ただ、直接自分がやられたことを許すのと、他人が他人にやった「陋劣な所業」を許すのとでは、これまた、違う話……なのか、違わないのか。感情の問題だとしたらもちろん違う話になるけれど、感情だけの問題じゃない、っていうんだから、違わないところもあるんだろう。なんだろう、それ。
ブラウン神父は続けて言う。

「あなたがたは、ご自分の趣味に合った悪徳を許したり、体裁のいい犯罪を大目に見たりしながら、桜草の咲きこぼれる歓楽の道をずんずんお歩きになるがよい。われわれを夜の吸血鬼のように闇の中に置きざりになさるがよい。そうすればわれわれは本当に慰めを必要とする人たちを慰めます。この人たちは本当に申し開きの立たぬことをしているのです。本人も世間も弁解の言葉を知らぬようなことをしているのです。それが許せるのは司祭以外にはないのです。卑劣な、唾棄すべき、本当の罪を犯した人たちをわれわれに残してください」

「あなたがたは自分はこういう陋劣な罪を犯すことはできないとおっしゃる。しかし、あなたがたはこのような陋劣な罪を告白することがおできになりますか」