予報どおり

本日の最高気温、34度。
天気予報当たりすぎじゃないのか。
明日の予想最高気温、33度。
……1度でも下がるというなら当たったほうがいいのか、この予報。


さて、科学と疑似科学をわける基準のひとつとして、反証可能性という考え方があります。ひとに説明できるほど理解しているわけじゃないんだけど……これこれこういう観測結果が出てきたらその理論が間違っていたことを認めるよ、っていう痛いところ(反証可能性)を持っているのが科学で、どんな事実を持ってこられようと説明つけてみせるぜ、っていうのが疑似科学。まあ、こんなにきっちりわけられるものでもないらしいですが。
科学理論というのは「仮説」であって「真実」ではない、ということです。
なんでいきなりこんな話をしているかというと、昨日のユダヤ教の話につながるんですが、ユダヤ教では矛盾を矛盾のままにしておく、っていうのです。いつかわかるだろう、って。いつか、っていうか……ヘブライ語の動詞には時制がない(過去形・現在形・未来形のような区別がない)というのです。なので、時間の感覚が違うので、「いつか」って言っちゃうと、違うらしいのですが。過去に神さまが世界をつくって、現在に至って、未来に向かっていく(「進化」していく)、というのは聖書がギリシャ語に「翻訳」されたことによって出てきた考え方なんだそうです。このへんの話もおもしろかったんだけど閑話休題
科学と違って宗教は「真実」なんですよね。矛盾を矛盾のままにしておく、って、矛盾してるけどどっちも真実!って言い切っちゃう力技なわけで、非論理的なんだけど、そういう宗教のほうがむしろ強いんじゃないか、っていう気がしたのでした。反証可能性がない。……ないというか、あるのに知らんぷりしてるというのか……。どんな事実を持ってこられても説明するぜ、っていう疑似科学とも違う。ぜんぜん説明しようとしないで、しれっとしてる。その点、イスラム教は反証可能性がありそうな感じ(なんとなくのイメージでものを言う)。宗教なのに。
けど、力技を成立させてしまう説得力はどこからくるのか、わからない。この場合の「説得力」は「魅力」だろうなあ。それとも、力技だと思っちゃうのが違うのかなー。