なにかんがえてんだかわからない

一昨日の「テレビジョン」は、鈴木大拙無心ということ (角川ソフィア文庫)』(←むずかしくてわけわからん)に出てきた語なんですけども。
鈴木大拙が亡くなったのは1966年。
テレビ放送が始まったのが昭和28年。
と、いうのは記憶していたので、この本がテレビ放送開始間もない頃に書かれたものであることは、わかるわけですが、だからって瞬間的に私のあたまはそこまで計算したのか。
(実際の発行年は1955年、「先ごろ」東京で行われた講演がもととなっている、と書かれている。発行年はいま確かめた。)
ちなみに没年をおぼえていたのは、来年で著作権切れだな、という認識があったから(なので西暦)。
テレビ放送開始年をおぼえていたのは、京極夏彦鉄鼠の檻 (講談社ノベルス)』の作中で、テレビが始まった(「始まる」だったかも)って話をしていたから(なので昭和で認識)。
没年をおぼえたのは今年、『鉄鼠の檻』を読んだのは19年前。
『無心ということ』には禅についてかなり書かれていて、『鉄鼠の檻』の舞台は禅寺。
……私のあたまは瞬間的にどこまで考えていたのかなー。
ただし、大拙先生はアメリカなどの海外在住歴が長いはずなので(具体的には記憶してません)、テレビをはじめて見たのが日本だとは限らないですが。

この世界の生活と、あの無心の生活とは、どうも矛盾しているように思われてならぬ。ところがこの世界の生活というものの中においても、また非常な矛盾が蔵されているのである。矛盾があるというよりも、むしろわれらは矛盾そのものを土台として、この生活ができていると言ってよい。