神の定義

……私の手に余るテーマだなあ。
「あなたは神を信じますか?」という直球アンケートでもやろうかと思いましたが、「神」の「何」を信じると問われているのかと解釈するかで変わってくるだろう。というか、たいていの日本人はこの質問に胡散臭さを感じるだろうな。
過去問にあった。ありがとう先人。

なるほど、こういう訊き方だと「存在する」のほうが優勢になるらしい。「信じるか」という問いだと、「存在」を信じるのか、「善性」を信じるのか、わからない。
「存在」を信じるとしても、存在するとはどういうことか、という解釈はさまざま。「善性」にしたって同様、善とは何か、人によって違うだろう。


ひとつに、創造主としての神。宇宙が、私たちが、存在しているからには、それを創ったものが存在しているはずだ、という。……私自身は、創造主としての神には興味がないというか、じつは、そういう存在について考えると反射的に腹が立つ。と、いう個人的な感情は抜きにしても、「じゃあその創造主は、『いつ』、『どこで』、『どうやって』存在し始めたのか?」とか考え始めて創造主の創造者とかを想定し始めると収拾がつかなくなる、という難点が。

科学って、いわば「世界をリバースエンジニアリング」しているんですね。世界を構成しているものを調べたり、物理法則を調べているじゃないですか。あれって、誰かが作ったプログラムをプログラマが解析しているのと同じようなものですね。このクラスとこのクラスがこういう関係にあるとか、テストケースを与えて、振る舞いを調べたりとか。乱暴な言い方をすれば、科学は世界をリバースエンジニアリングしているみたいだな、と。

それでですね、ここから大事な話なんですが。リバースエンジニアリングが意味を持つのは、そのシステムを作った設計者が存在するときだけなんです。だから、もしもデザインした設計者がいないもの、そもそもデザインなどされていないものはシステムとは呼べないし、調べてもつまらない。

この世そのものを探っているサイエンティストが、その向こう側にいる本当のデザイナー、世界をクリエイトしたクリエイターの存在を意識するのは、当然だと私は思います。だから、科学者が世界の創造主としての神さまを信じるというのは、とても自然なことだと思います。

こういう想定のし方だったらいちおうは納得できます。「創った」、というよりも、「法則を司る」という感じ……なのかなー……と想像するのですが。そういう風に解釈すると、それはまた別の神になるのかも。意思を持って世界を創った存在として創造主を考えなくとも、世界の法則、世界の秩序に神を「見る」ことはできる、と……私はそう考えている、と思う(はっきりせんなー)。たしかに、設計者を想定しないと、今現在さまざまな法則が成り立っているのは、成り立っているように見えるだけですべて偶然だ、ということになってしまうのだが、偶然だというほうがよっぽど凄い。その「凄さ」に神を見てしまう、あるいは、「凄さ」こそが神なんである(もちろん偶然などといってしまっては科学は成り立たないのですが。原因があって、結果がある、その間に「関係」がある、というのが科学的思考の前提なのだから)。あと――世界の法則というものが、実在するにしろ、あるように見えるだけにしろ、法則というものはそれだけで美しい、と感じる。単純であるほど、美しい。で、「美しさ」というのも神だよなーと思ったりする。


自分でも何いってんだかわかんなくなってきたー……。明日には違うことをいっているかもしれない。というわけでつづく。