神様はおとなしく神頼みされててください。

昨日のつづき、なんですが。結城さんが昨日の記事に言及してくださいましたよ。びっくりしました。というか人力リンクされたのからして(たぶん)はじめてです。

人格、というとややこしいなら、「その神に話しかけたり、お願いしたり、恨み言を言ったりすることには意味があるだろうか?」ということです。

意味はあります(いきなり断言かっ)。


というわけで今日は神頼みについてです。
無宗教な人が多いという日本人といえどデフォルトでは神様を信じている、というのは、困ったときに神頼みするでしょ、ということです。頼む対象が「神」だと思ってなくても、とにかく、「何か」に願ってしまうことが、ある。自分じゃどーしようもないことを、そうやって自分よりずーっとえらいひとに預けてしまうと、ちょっと楽になって、自分にできること、というのがわかるようになる。で、結果、うまくいかなかったら、頼んだ相手――神様に怒って、そういう感情をまた預けてしまって、ちょっと楽になる。うまくいったら、神頼みしたことなんて忘れてるので、えらいぞ自分、ということになる。都合がいいぞ。

「願いが叶うか叶わないかは祈った者の努力次第なのです! 神様は願いを叶えてくれるのではなく、願いを聞いてくれるのです。何と有り難い!」

そう、ほんとうにありがたい。神様は聞いてくれるのです。ふつうの人間にとってはその声が聞こえる距離にいないらしい神様だけど、なにしろ神様は神様だから、とっても耳がいいので、人の心の声だって聞いてくれます。すごくべんりだ、神様、役に立つ。
創造主な神様にはなんとなーく腹が立つ私ですが、神頼みの神様は大好きです――非常時には。……都合がいいなー……。


ところで、この神様、人間の本能だろうか、文化だろうか? というのはつまり、どんな時代、どんな国の人であっても、自分よりずーっとえらいらしいけれども会ったこともない存在に思わず願ってしまったりするのだろうか、それとも、教えられて願ったりするようになるものだろうか、ということですが。「思わず」というのだから教えられるものではない、ような気がするが、しかし「会ったこともない」というところもポイントで、――どんなときでも自分を助けてくれる、自分よりずーっとえらい、しかも会ったことのあるひと、というと、親でしょう、子どもにとっては。会ったこともない神様なんてものを信じる必要はない。でも、親からしたら自分が子どもよりずーっとえらいひとでいつづけることもできないので、自分のほかにえらいひとがいるんだよーってことを、無意識のうちに教えるのかもしれない、とか思ったのでした。……教えられなくても、子どものほうで勝手に学習していく、とも考えられるかも。「無意識」とか「勝手に」とかいう言葉が出てくるってことは、本能のほうに近いかなー……。