不可視の不信

人は常に、隣人に殺害される可能性と共に生きているはずだ。そして常に、人は隣人を殺す可能性を持っている。

 本当に信用していなければ、自分が信用していないことすら相手に教えないし、気付かせもしない。それが「信じていない」ということなのだ。

……上のつづきー。
ほとんどすべての他人には、「私」よりも大事なものがある。「私」にも「あなた」よりも大事なものがある。だから裏切ったり裏切られたりすることもある。「私」のことがいちばん大事だという他人がいたとしても、「私」の望むことをしてくれるとは限らない。意志の伝わり方やそれを実行する能力の有無にもよるだろうが、そもそも「私」の「何」が大切なのか――命なのか、心なのか、容姿なのか、才能なのか、――そして「私」のいちばん大事なものは何か、「私」自身だとしても、「私」の「何」なのか――必ず齟齬は生じるのだ。
だから気にすることはない――なのかなんなのか、私は、気にしていないようだけど。
そもそも、裏切られた、とか、騙された、という経験がない。たぶん。上に「裏切ったり裏切られたり」とか書いたけど、じつはぜんぜんぴんとこない。人にひどく傷つけられた、ということがないのだ。少なくとも、記憶にはない。運がいいのか、忘れたのか、それともそれこそ信用していないということなのか、わからないけれど。


そもそもの質問に話を戻せば、あの場合には、30番の回答になってない回答のように、質問返しをするほかない、と思う。じつは私がはじめに質問文を読んだときに反射的に思ったのは「信用しなければいいじゃん」だったのですが、上のエントリに書いたように、どのレベルで信用できないのかがわからなければ、それ言っちゃまずい、と思うので。その言葉自体が信用されなければいいのですけどね。


一昨日、書きかけで消えた、というのもある意味、「信用」の話だったのですが――それはまた今度。