楽に生きる秘訣?

次のみっつの質問には似たニオイを感じる。

……なんだか、生きづらそうな感じが。
14日の日記に私はこう書いているのですけど。

というか人が会話しているのに参加せず傍で聞いてるだけっておもしろいですよね(話題がつながってません)。……あれ?そういうのって疎外感をおぼえるほうが一般的?

このときに傍で話されていたのが、「人間には『目標を持って生きる人』と、『そのときそのときで生きる人』、二種類いる」っていうようなことだったのです。で、生きづらそうな人は前者なんではないかなあ、と想像している。正確には、「人間は目標に向かって生きるべきだと思っているけれど、自分の目標が見つけられない」。この「目標」っていうのは「使命」といってもいいし、「生きる意味」ともいえる。
私自身はかんぺきに後者で、「いまがよけりゃそれでいいや」。……いや、これも正確じゃなくて。「いまがわるい」と感じること自体がほとんどないような気がしますよ……? 忘れてるだけか? ……つらいことがあったとしても、「昔はよかったのに」とも、「明日はきっとよくなる」とも、思わないような気がする。「まあ、なんとかなるだろう」ってだいたいいつでも思ってるような気もするけど、その「なんとかなった」未来を、具体的に想像してたりはしない。……いや、そうじゃない。
過去がどうだったのか、未来がどうなるのか、その回顧や想像は、外部のことについてなんだろう。外部というのは、境遇――家族がいる、親友がいる、お金がある、仕事がある、好きなことができている、健康である――そういったこと。だから幸せだったという述懐、あるいは、だから幸せになれるだろうという希望。……そうじゃなくて、ただたんに幸せである、という「いま」があるのだ、と、私は知っている、と思う。これはたぶん、「よかった探し」が得意とか不得意とかでもなくて。
なんにしろ、「生きるのがつらい」っていう感覚が私にはさっぱりない。ほんとうに心底、「生きるのがつらい」となったら、あっさり自殺するかもしれない(「つらい」に耐性がないから、そして「生きなければならない」とは思ってないから)。……が、「『つらいと感じる私』を観察する私」が登場してくるわけですよ。観察して、おもしろがってくれちゃうのだ。「自分を観察する自分」はいつでも潜んでいるみたいだけれど、つらいとき――というか、不愉快なことがあったときに特に存在を主張するようになっているようで、じゃあそういうバランスをとっている「私」はなにものなんだろう、と思う。昔はこんな機構はなかったはずなんだけど。


考えながら書いてたら、書く前に思ってたのと違うとこに出ちゃったような気がするのですが、そもそもどこへ行こうとしてたんだったか……。しかし異様にねむいので、寝ますー。

孤独を学ぶのに早すぎるということはないからね。とりあえず、夕陽がきみの友達だ。ところが夕陽君は、すぐに消え去ってしまって、とたんにきみは夜のカーテンで仕切られてしまって、完全に独りになるわけだ。早く、誰よりも早く孤独に狎れることだ。慣れるんじゃなくて、狎れるんだよ。狎れなれしいっていうだろう。そのあたりまで、親しくなっちゃって、けじめをなくしてしまいなさい。それが楽に生きる秘訣だよ。

赤ん坊に何を言い聞かせてますかおっさん。