「自由に考えてください」という不自由

 独り小舟に乗り、大海をさまよっている。周囲のどこにも逃げ場はない。助けてくれる仲間もいない。そんな状況が孤独だと勘違いしている者が多いようだ。まったく違う。それは孤独とは別のものである。

 場所など、どこであっても同じこと。私たちの周囲には、そもそも逃げ場など存在しない環境ばかりだ。デスクから離れることはできない。窓から飛び出すことはできない。夜はベッドから逃げられない。友人たちを裏切ることはできない。

 むしろ、そういった逃げ場のない設定こそが、人間に「安心」という幻想を見せる条件でさえあるのだ。周囲のどちらにも行ける自由とは、すなわち砂漠の真ん中に取り残された夜のようなもので、つまりそれが、孤独の必要条件でもある。

 だから、自由と孤独は、切り放せない。

 道が一本あれば、行く手は自然にその一つに決まる。選択する機会が失われる。その不自由さに、人は安堵して、歩み続けるだろう。立ち尽くすよりも歩く方が楽だからだ。

 そして、その歩かされている営みを「意志」だと思い込み、その楽さ加減を、「幸せ」だと錯覚する。

 孤独という自由を、人は恐れ、
 その価値を評価しないよう、
 真の意志の存在を忘れるよう、人は努力する。

 自分たちを拘束する力を「正しい」と呼んで崇めるのだ。

「…自由ってなんだ。」

「孤独を恐れないこと。」

3月29日の日記で、「自由」を「教える」ことはできないと書きました。「自由」というのはおそらく最も伝達が困難な概念のひとつです。「これ」が自由だ、と指し示すことができない。特に、「思考」の自由については。
「自由にしていい」とわざわざ許されなくても、「考えるな」と制限されようと、「考えること」だけは、どの時代も、どの場所でも、事実上、自由だ。それを表明することが制限されることがあったとしても、「考えること」自体は、自由でしかあり得ない。ほんとうに制限する方法などないのだから。
でも、自由だからといって、実際に自由に考えているだろうか?

「思考というのは、既に知っていることによって限定され、不自由になる」犀川が煙草を消しながら言った。「まっさらで素直に考えることは、けっこう難しい。重要なことは、立ち入らないことだ。海月君が真理を見抜いたのも、その視点によるところが大きい」

「知る」ことによって制限される。けれど、それ以前に、私たちは――「私たち」でくくっちゃっていいのか――そもそも自由を使いこなせないのではないのか、とも思う。少なくとも、私自身は、「知る」ことによって自由になっていく、と感じています。
「教育」によって、制限される。しかし、そうやっていったん制限されないと、「考える方法」自体を獲得できないのではないか(「天才」は別なのかもしれないけど)。その不自由さを足がかりにして、新たな「考える方法」をつかむ、ような気がする。だから、それは「真の自由」ではないのかもしれない。

「自由を強調するより掟を強調する世界の方が、人間は知性が強くなる」

うーむ、やっぱりこれも、「不自由」を知らなければ「自由」を知ることはできないってことになりますか。「自由」を「教える」ことはできないというよりも、「自由」をつかもうという意志を育てることはできない、なのか。