「子ども」は大人の「小さい版」に見えるか?

で、上のは前フリなんですけど。

ライトノベルをまんがに置き換えてちょっと昔話を。
小さい頃はふつうに、まんがというのは大人になったら「卒業」するものだと思ってました。卒業しなければならない、ではなく、卒業するものだ、と。そういう風に人間はできているんだと思っていた……のではないかと思う。
そうじゃない、と気づいたのは……中学生ぐらいのとき? おぼえてないのですが。どういう風に気づいたのかもわからない。大人になっても「子ども」が好むものを愛好する人々が、いっぱい……なのかはわからないけど、いるところにはいる、とわかりはじめたのは中学の頃だと思うけど。そういうことよりも、私はこれが好き、あれが好き、とかいう自覚を持ったせいというのが大きいかもしれない。それまでも夢中になって読んではいたけど、何しろ「夢中」なわけだから、「好き」だという自覚がなかったのではないかと想像する(自分のことだろうに……)。実際、小学生のときに好きだったまんがって、ほとんどおぼえてないのですよ。
「好き」だと思うと、それなしに生きていくことができなくなる、わけもないけど、それでもいつか好きじゃなくなるという想像は難しくなった。というか、うーん、単純に、「好きなものを嫌いになりたくない」なのかな? ……ひとはそれを未練と呼ぶ……熱は冷めるものだ、それは知っているけれど、嫌いにはなりたくないと、それでも思う。
「自分はもう変わらない」って感覚もあったかも。それはちょっと、勘違いだったというか、でも当たってもいるような、まあ、ふつうです(何)。ともかく、まんがは読み続けてきました。まあ、ふつうです。好きなことを続けている。ふつうですよね。
ところで世間的にはやっぱりまんがは「卒業」すべきものである。子どもが大人になるための通過儀礼、子どもが大人になるための栄養分、みたいな。通常、奨励されるものでもないので、必要悪、みたいな? あるいは、はしか、みたいな? そういうものだとされている。
そして、世間一般の大人にとって、「子ども向け」は忌避すべきものである。「子ども向け」を好むことは「子どもっぽい」ことだから。「子ども」というのはいつか「きちんとした大人」になるべき、不完全ないきものだから――なんですかね?(訊くな)
それにしてはなんで「ハリー・ポッター」はあんなに売れたのか。「海外でも人気」という箔がついてて、「みんなが買ってる」からか。「売れてるから売れる」。この場合は「子ども向け」「ファンタジー」というのも何か目新しいラベルとして働くのかもしれない(「子ども向け」であるということは知られてますよね?)。「子ども向け」は「恥ずかしい」けど、「みんな」が買ってるから「いい」のだ、と。
子どもだってけっこうそうなんじゃないの?とか思う。「みんな」が読んでるからいっしょに読む、という。それをネタに友達と話す、というほうがメインの楽しさ。あるいは、仲間外れにされたくないというおそれ。だから、「みんな」が読まないのであれば読まない。
……とか。
人生は「階梯」だろうか。「卒業」ということばにはそういうイメージがある。「子どもっぽさ」が忌避されるのは、大人は子どもに「戻って」はならないから、という感じは、する。子どもが遊ぶのは大人になるためのもろもろを学ぶためだ、という理屈がつけられ、そうすると大人が遊ぶ理由はない。前にも言及した『消費の正解 ブランド好きの人がなぜ100円ショップでも買うのか (カッパ・ブックス)』で、「必需品」と「贅沢品」を区別する軸として「仕事に結びつくかどうか」を挙げていたのですが、なるほど子どもの遊びは「必需」だけど大人の遊びは「贅沢」なのである。

贅沢とは、出来ないことを強引にやり倒すから贅沢なのだ。

……ふむ、まあ、たしかに、贅沢……?
……自分が子どもだった頃のイタイ思い出が想起されるから、なのかもしれない、とも思う。「子どもっぽさ」が「恥ずかしい」というのは。


 子供は成長して大人になる。では大人は、成長すると何になるのか。