ベイリー君について・その2

彼女は、永遠に向かって挑戦し続けているのだ。そしてそれこそ、科学者の、――いや、知性を持った人間の、あるべき姿だ。

心をもつ人工知能について。(→その1
そういえば、数年前、自然言語処理の研究者に、リスクとかデメリットについて質問したことがあります。ご自分の専門分野について、害や危険性はなんだと思うか、と。なんか考えたことなかったみたいで、しばらくあと、「情報の分野には、そういうのはないと思うけど」と答えられてしまった。むむむ。まだ三十歳にもとどかないような若い人でしたけど……。
ところで、人工知能の研究といったって、別に心をもつ機械をつくろうとしているわけではない。例の質問は、そのへんちょっと誤解を与えるな、と思った。もしもの話、未来の話、半分フィクションとして、「心をもつ」ということを「人工知能」ということばに含めるならいいのですが、「現在の人工知能研究」の話として「心をもつ」というのを考えるのは、違うので。もっとこまごまと、実用的なことをやってると思います。そうじゃなきゃ予算がおりないだろうし(世知辛い)。……自分のやってる研究が、どういう風に役に立つのか、きちんと説明できなくちゃだめだ、と、とある研究者はおっしゃいました。
人工知能研究といってもいろいろで、かつて人工知能の一分野とされていたものがそうじゃなくなる、ということもあるみたいで、まあ、対外的にハッタリはきくんだけど誤解も多い、という、厄介な用語です。研究者はかえって使わない、かも。使う必要がない、というのもあるだろうけど。


創造主としての神を信じている場合、「神の被造物たる我々人間が、神の被造物である我々人間と同等のものをつくれるわけがない」、となるような気がする。私は、創造主としての神様は気に食わないので好きじゃないのですけど、でも、そういう風に思ってるところがある、かな。いいんだか悪いんだか。神への畏れがある、というのは、悪いことじゃないと思うけど、それで自分のやることへのおそれがなくなっちゃうとなると、まずいか。


私は研究者ではないので読んだ人は気をつけてください。
「その1」とかかましておいてつづきがなかったらマヌケだったのでよかったよかった。それではまた明日。