オデットとアーシア

「心と人工知能」シリーズ。
本日のテキストは鈴木ジュリエッタの『カラクリオデット 第1巻 (花とゆめCOMICS)』です。
タイトル通り、オデットは吉沢博士につくられたロボット。表情に乏しく、淡々と喋るけれど、学校に行きたいとか、おいしいってどんなのか知りたいとか、友達を助けたいとか、そういうことを言い出す女の子。いったいどうやってつくったのだと吉沢博士を問い詰めたい。
で、吉沢博士の知り合いからアーシアというロボットがテストデータをとってほしいという依頼によりおくられてきます。彼女は愛想がよくて「ネコ大好き」って言う、いかにも女の子、って感じの行動をとる。オデットはあんな風になりたいと思う。けれどある日、車に轢かれた猫を見て、アーシアは「可哀相に」、と言い、「かわいいね」、と言い、「ネコ大好き」、と笑った――それでオデットは、アーシアがそういう風に「つくられて」いるのだと知る。
さて。
ここで真っ先につっこみたいのは「なんでオデットは自分のことは疑わないのか」なのですが、それはおいておく。
私はまず、オデットとアーシアの違いは、「欲求」の有無なのではないかと思った。はじめて読んだときの感想に、こう書いていた。

オデットにはやりたいことがあって、知りたいことがあって、それで動いている。アーシアには、ない。外界からの入力に対して、それらしい反応を示すように、プログラムされている。オデットが、アーシアは「違う」のだと気づいたのが「死」の場面だから、なんだかわかりやすいような気になってしまうのだけれど、これはまだ反応のプログラムが不十分だっていうだけなんじゃないのかな。こういう場面でも、ちゃんと悲しんでいるように見えるよう、「死」を理解しているように見えるよう、つくることは、できる。それでも、オデットとは違う。

でもこれ、違うな。オデットに欲求があるとわかるのは、オデットの内面が描かれているからだ。ほんとうのことがわかる、神の視点が与えられているから。それがお話であるから、信じられる。まったく、現実と虚構の区別がついてないな私は! 反対に、アーシアの内面はまったく描かれない。それは内面が「ない」、ということを暗示するわけなんだけれど……もし、アーシアがほんとうに猫の死を悲しんでいて、でもそれをどう表現すればいいのかがわからなくて、混乱して、ああいう反応になってしまった、のだとしたら? なにしろ彼女の内面は描かれていないのだから、なんとでも解釈できるのだ。「現実」では、その可能性を否定できない。
というわけで、内なる欲求があるようにつくることも、できるでしょう。ほんとうに「ある」のかどうかは確かめようがないのだから。
そもそも、「内なる欲求」などというものの存在を疑ったっていい。人間だってそういう風につくられて――「つくられる」だと、つくった神様の存在を考えなくてはならないので――そういう風にできているだけ、といえる。おいしいものを食べたいように、友達といっしょにいたいように、可愛い猫が死んだら悲しむように、そんな風にできている。
――って、前にも同じようなこと書いたな。同じようなこと書いてるのはいつものことか……。


っていうか。
オデットが可愛いのでいいまんがなのです。