「私」のいるところ

……「私」の範囲はどこか、という問いに見えたのだった。頭ん中の「量子的ゆらぎ」(ってなに?)も含めて「私」です!と言い切っちゃえば、どれもこれも“自由意思”になるんじゃないかと思った。けど実際、「量子的ゆらぎ」(ってなんだ?)とまで仲良くはなれない。
このたとえ話では。結果的に「買う」「買わない」どっちを選ぶのか、という行動よりも、どういう風に悩むのか考えるのかってほうが興味深い。次々入ってくる情報に対して、ぴこぴことニューロン内を電気信号が走るわけですよ(ぴこぴこは言わない)。いかにも「私らしく」悩むように悩んでいるかのように、信号が走る。勝手に。勝手にやってるのになんで「私らしく」悩めるのかといったら、そういう風に回路ができているから。それを「私」だと思っているから。こういうことを考えていると、逆に、「私」が信号を走らせているかのように思えてきてしまう。まるで回路の外に「ほんとうの私」がいるかのように。そうじゃない。いまの、私が「私」だと思う「私」、これができあがったのは、私が望んだからではない、望んだけれど、望めたのは、回路がつくられて信号がぴこぴこ走るからだ。たまたま。偶然。今日黒猫が視界の隅に映ってできたシナプスのために十年後バナナで滑って転んで死ぬようなものだ。そういう積み重ね。偶然は説明できない。
――とかいってもな、むー、ゆらいでいようといまいとそんなぴこぴこゆってるようなもの(ぴこぴこは言わない)なんか知らん、仲良くできん、気に入らないー、と、感じる私は、やっぱり「魂」のようなものを信じているのだろう。そう感じているのもぴこぴこゆってるものなんだろうに。信じちゃうものは仕方ない。……自分ではっきり意識できるレベルでさえ、「仕方ない」。