「好き」の濃淡

春一番バレンタイン。チョコレートもらいましたか! っていうのはセクハラですか!
しかし恋愛ネタではない。


好ききらい、というのは、私がものを評価するときにかなり上位においてる基準です。基準……といってしまっていいものか。実用的に上位になってしまうのは「めんどくさそうかどうか」なような気がしますけど。と、快不快、は、自分で選べないかな。好ききらい、は、そのへんよりは意識的。好きになろうとして好きになれるものでもないけど、えーと、なんか……ふんばれる、というか(なにを?)。あとは、おもしろいかどうか、とか、美しいかどうか、という基準が「好き」。みにくい真実より美しい嘘! 世間の常識とか道徳とかは下のほうの基準ですけど、私の美意識は意外と(意外じゃないが)常識的で道徳的なので行動する上での齟齬はない。ポイ捨ては「美しくないこと」。なんで人のものを盗ってはいけないの?と訊かれれば答えは「恥ずかしいから」だ。なぜいけないのか、の答えにはなっちゃいないのだが私的にはこれでおっけー。しかしこういう感覚がどう培われたかといえば、環境であり、しつけとか教育の成果、ということでしょう。ごく常識的な中流家庭に育った証、である。ではあるが、それは自分の基準にする、自分で決めた自分の基準にする、と、決めた転換点があったはずで……いつごろで、なんのきっかけだったんだろう。これを基準とする、と決められるもととなった、メタ基準はどこからきた? とか考えるとわかんなくなってくるし、そもそも本題ではないはずだ……。
「好き」は「絶対」、であってほしい、と思っている。絶対、不変で、普遍。比べられないもの。好きなものと、他の好きなものを比べて、どっちのほうが好き、とか決めたくない。いちばんなものはひとつだけじゃなくて、いっぱいあるのがいい(ゆとり世代だから!(←サバをよむな!))。とは、思う、思いたいのだけれど……やっぱり「好き」も絶対評価じゃないんだろうな、と、最近思う。ほんとうのほんとのひとめぼれって、できないものなんだ。はじめっから好きだ、というのは、もちろん、あるけれど……「好きじゃないもの」に出会ってはじめて、それよりもこっちのほうが好きだ、ということに気づく、のだと思う。それよりも、だ。ここで比較している。好みって、はじめからできあがってるものじゃないんだ。当たり前なんだけど。好きじゃないものとの対比で、こんなのが好きなのかーって気づきながら、日々、微調整している。(好きじゃないもの、イコール、きらい、というわけではない……「きらい」のほうが「好き」よりも本能的かなあ、って感じもあるけど、どうなんだろう……。)知っているもののなかから、判断する。これまでの経験が、いまの「好き」をつくる。……いや、もー、当たり前なんだけど! 当たり前なんだけど、あらためて思うと、なんかなあ、自分、ちっさい! ほんとうに新しいもの、オリジナリティのあるものをつくる人って、どうなんだろうかなあ。自分の知らないものを、つくろうとする人って。
熱に浮かされたように何かを好きになっちゃうと、熱が冷めたときに……恥ずかしいんだよ。封印したい。そうならないときもあるけど。恥ずかしいと思ってしまう自分が自分で悲しかったりとか。すっごく好き、っていう限度を知ることは、基準がくるうことで、たいへんなのかもしれないな。好きなものは、ずっと好きでいたいんだけどな……。