破滅的で華々しい終末と、退廃的でゆるやかな終末

私が生まれたとき、世界は破滅的で華々しい終末の時代であった。
……むずがゆい言い方をするなあ。
ノストラダムスの大予言である。
桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』を読んでから、時代、というものについて、考えていたりする。私は、赤朽葉孤独(あかくちば・こどく。人名である。……人名なんだよー)とほぼ同年代。口裂け女トイレの花子さん、コックリさん、という懐かしい名前が出てくる中、ノストラダムスのおっさんの名も登場する。

 孤独はまだ小学生であったこのころ、ある諦念を持った。というのはこのころ子供にブームとなったものの一つに、ノストラダムスの大予言というものがあったのだ。中世に生きた予言者によると、一九九九年七の月に、世界は滅亡するのだという。隕石が落下するのでは。その昔、恐竜が絶滅したときのように氷河期がくるのでは。核戦争が始まるのでは。さまざまな仮説を興奮して話すうちに、その気になってきた。孤独は、そのとき自分は何歳になっているのかと、指折り数えてみた。二十四歳であった。そんなに若いときにすべてが終わってしまうのかと思うと、孤独はすべてにやる気をなくした。宿題もせずにだらだらしていたところ、父の曜司に注意された。孤独は「どうせ二十四で死ぬのに、宿題なんて」と言い返して、父に頬を張り飛ばされた。

日本でこの予言がブームになったのは、五島勉という人の書いた『ノストラダムスの大予言』が発端だったらしく、その出版が1973年。1975年生まれの孤独が小学生ということは、1980年代なので、そんなにブームが続いてたのかなあ、と疑問に思うのですが、私も小学生の頃にこの予言を知ったと思うので、ずっとブームが続いてたのか、下火になって再燃したのか……。
残念ながら、私はこの予言を真に受けてなかった、と思う。残念なのか。うーん、残念。やっぱり私のときには下火だったのかな。私の場合、そんなはるか先のことなど、想像できなかった、というのが大きいのだろうが。信じてた人は信じてたのかなあ。わからん。ほんとうに信じているのか、なんて、確かめたことなかったと思う。占いやサンタクロースみたいなものだ。……が、世界が滅ぶかどうか、なんて、重要なことを、信じているかどうか確かめもしない、というあり方は、上の年代にはないものかもしれない。うーん?(自分のことを考えても、それがその年代を象徴するものなのか、自分が例外なのか、判別できないよなー……。) 乙一氏(1978年生まれ)が、エッセイか何かでノストラダムスの大予言について触れていたのを前に読んだような気がするのですが……。
ともかくも、東西冷戦の時代なのだった。

 せかいは、終わる。
 ある朝とつぜんに。
 光とともに。
 どれだけ努力をしても、平和を願っても、祈りは届かず、未来や希望や愛があるときとつぜん無に帰する。

華々しい、と、はじめに書いた。あるときとつぜん、すべてが終わる、その直前、というのは、華々しいと思うのだ。よきものも悪しきものも、ぜんぶがいっぺんに滅ぶ、というのは、どこか甘美な妄想だと思うのだ。それが不安の裏返しだとしても。
けれど、その甘美な妄想の時代も、終わっている。というか、なんたることか、世紀末の前に終わっちゃってたと思う(少なくとも、1990年代の半ばには)。冷戦は終わってしまった。核の脅威がなくなったわけではないが、「アメリカ合衆国核兵器」や「ソビエト連邦核兵器」と違って、「朝鮮民主主義人民共和国核兵器」で世界戦争は起こらない。国内の公害も、おさまってきてるように見える。オウム真理教というフィクションは、現実を覆い尽くせるほどつよくはなかった。温暖化は進んでいるらしいが、今日明日でどうなるものでもない。まあ、それ以前に、「ある日、とつぜん、せかいが終わる」というものがたりに、みんなが飽きていたのかもしれない。
せかいは、すぐには終わらない。
でも、じわじわと、ゆっくりと、終わりに近づいている。
大石圭出生率0(ゼロ)』という小説がある(1996年刊行)。読んだのはけっこう前だと思うので、ほとんどおぼえていないのだが、タイトル通り、出生率がゼロとなった世界の話。とつぜん、ゼロになった。子どもを身ごもれなくなった。とつぜん、というところは、華々しいのだが、それがとつぜんだった、ということに人が気づくのに時間がかかったし、その「とつぜん」の結果が出るのには、もっと長い時間がかかる。街に電光掲示板が立っていて、そこに世界の人口が表示されているのである。その数字は、ゆるやかに減っていって、けっして増えることがない。減っていく数字を、人々は、毎日、見ている……
そういう時代だ。
もちろん、現実には、出生率はゼロになんかなっていないし、そんなにわかりやすい滅びではない。でも、減っていく数字を、毎日、見ているような、心地ではある。これはこれで、甘美な妄想であることだ、とも思う。
が、現在進行形の妄想は、甘美なだけではすまないのだ。
道は、行き止まりだ。けれど、行き止まってからどうするのか、考える時間は、与えられてしまっている、というような。
困ったことに、このまま滅びがやってくるわけでもないのだ。現実の滅亡よりずっと前に、退廃的でゆるやかな終末の時代は終わる。終わってしまう。また、揺り返しがくるだろう。
……どーなるのかなあ。
どういう時代になっても、甘美なる滅びを夢見るこころは、消えないと思う。滅んでほしいわけではないし、ましてや自分が死にたいわけでもない。諦念というほどの諦念もない。
永遠なるものが、存在すればいいと思う。
でも、永遠なるものなんて、厭わしい。
その両方の気持ちがあることは、たぶん、当たり前のことなんだろう、と思う……が、なんとなく、重い……。