虫食いの歪んだ大きな地図

いま。
自分がどこにいるのか。
私たちは「歴史」を知っています。けれど、昔の人の多くは、「歴史」を知らなかった。が、「歴史」とは違うやり方で、時の積み重ねを感じていたのだと思う。それがどのようなことなのか、知りたい、と思っている。
「歴史」というのは、三人称視点だ。とくに最近は、中立の立場でみることを求める風潮が強い、のではないか。けれど、昔はそんな俯瞰の視点はなかったはずだ。自分――自分たちを中心として、むかしむかし、ご先祖様、から、子どもたちへ、子孫へ、と流れる。それは、お話として語られるだけでなく――お話よりも多く、技術や風習の継承というかたちで、受け継がれていっただろう。
時間だけでなく、空間もきっとそうだ。江戸時代まで、人々に「日本」なんて単位はきっとなかっただろう。ここでも、自分たちのいるところを中心として、せかいは広がっている。それがいまは、「地球」である。大地はまるいんである。たいへんだ。そんなことを、私たちは、知っているのだ。……私はあんまりわかっちゃいないけれども。
この間、ちょっと前の時代といまの時代について書きましたけれど、昔の人はきっと、そんな風に過去や現在や、未来を、考えたりしなかっただろう。為政者階級は、また別なんだろうけど。
私たちは、あまりの多くのことを知っているので。年表に、地図に、隙間があっても、全体は知っている、と、なんとなく思っていたりするのだ。

だがその後少し時代が下がると、カリブ海南方の陸地、つまり今日の南アメリカが、驚いたことに新しい大陸らしい、どうやら「第四の」世界らしいと言われはじめる。伝統的世界像に呪縛されている当時の人びとの、暗い視界のかなたに「新しい」「第四の」世界がぼんやりとその姿の一端を浮かび上がらせてきたのである。いったいこれは何なのか。聖書のどこにそのことが書いてあるのか? 古代の偉大な学者たちの誰がそんなことを説いているのか? これにはっきりした答えのない以上、行き先のない「新世界」説を抱え込んだ当時の人びとの頭に、一種のカルチャー・ショックが走ったとしても不思議でなかった。新世界を新世界として確認し受け入れることの難しさは、今日我々の想像する以上のものだった。

ここまでびっくり仰天驚愕できる何かがあればいいのに、とさえ、思う。
一方で。伝統は失ってしまった。……伝統と呼ぶのが適当なのかどうか。伝統の受け継ぎ方が、失われる。俯瞰する視点では、とらえられないもの。……上に、「歴史」とは違う時の積み重ね方を知りたいと書きましたが、無理なんだと思う。知りたいというか、わかりたいのですけど。でも、知りたいとかわかりたいっていう好奇心の姿勢では、どうしてもとらえられないものが、あるんじゃないか、と。


さて。
それとは別に、このところ、「オリジナリティ」について考えていたのですけど、これもやっぱり「伝統」につながるらしい。が、このへんの話は今回は措いておく。
これがおもしろかった。↓

普通のことの延長なのに、なぜそこに個性が感じられるようになるのか。それは、人間の身体が一人一人みんな少しずつ違うからである。人の感覚器や筋肉は、一人一人違う。同じものを見ても、同じ音を聞いても、同じ食べ物を味わっても、そこから受け取るものは人によってほんのわずかずつ異なっているはずだ。だから、同じ演奏、同じ運動、同じ料理を再現しようとしても、本当の細部のところでは、人によってどうしても異なるものになってしまう。その、身体に起因するわずかな差異、これこそが、オリジナリティの正体である。身体に起因するわずかな差異は、本当にわずかだから、高い技術を持っていないと誤差に埋もれてしまう。技術が究極まで研ぎ澄まされ、誤差が僅少になり、そこに、身体に起因する解消不可能なわずかな差異がかいま見えたとき、それがオリジナリティとなるのだ。

個性とかオリジナリティってものは自然ににじみ出るものだ、とはよく言われることではあるけど、身体が違うから、というのは説得力がある。身体が違う。なるほど。こんな当たり前のことに感心してしまうってことは、身体を忘れがちってことなんだろう。うん、わりと、よく、忘れます……。


で。
梅田望夫平野啓一郎の対談本『ウェブ人間論 (新潮新書)』を読みました。
……あんまり私はウェブの世界で生きていないかなあ、という感じがした。梅田さんの言う、自分のブログが「分身」だって感覚はまったくわからないです。ええーと、うん、たんに、自分が書いた文章が載ってる、ってだけですよ……?というような。それだけ、ってよりはもうちょっと、色がついてますけど。……ちょっとというよりもうちょっと、色がついてますけど……(なんなんだ)。自分でつくってるものには違いないし、自分で制御できるし、そういうものは「分身」にはなりえないんじゃないかなあ、という感覚がある。あ、そうか、交流が多いブログは自分で制御できない部分も多いか……。
でも、なんだかんだで、まだ身体はここにあるじゃないか、って。生きているのは、私がいるのは、ここでしかない。よく身体のことを忘れるし、意識的に身体を消した文章を書こうとするときもあるけど。抽象的な話をしているつもりでも、思わぬところで「現実」の感覚が追ってくるものです。うっかり書きながら貧血おこしそうになったりしてるし。そういう「現実」のつよさって、くやしかったり不快だったりもするんだけど、基本的には、安心……かな。ってところも、なんとなく、いやなんだけど(めんどくさい奴め)。
……身体性が切り離されるというより、身体性が拡張しているのではないか。……いや、わからないですね。


前に「時代」について書いたとき、用意していたけど使えなかったキーワードに「閉塞感」がある。で、梅田さんが一九九〇年代前半の日本って、閉塞感の強さという意味で確かに特異な時期だったかもしれませんね。日本に帰ってきて九三年から九四年まで東京に住んだんですが、その頃日本で感じた閉塞感の強さって本当にすごいものがありましたね。っておっしゃってるのですけど、私の「閉塞感」は、いま、なんですよね。なんだこの違い。ってそりゃ、私自身がいま行き詰まってるからでしょ。はあ。いまのことなんて、過ぎてからどんな時代だったかっていえばいいのだ。
というか……
最近、「時代」について考えていたけど、それは、いまがどんな時代だったか規定したかったのでも、未来がどうなるか知りたかったのでもないようだ。たぶん。規定すること自体から脱却したい思い、がある。第一、いまが、「歴史」のなかでどう位置付けられるのかなんて、どうでもいいじゃん(よくもないが)。私は、いま、ここでしか生きられないのだから。で、最初の話に戻るのですよ。昔の人はどういう感覚だった?という疑問。