ファンタジーについて

昨日にひき続き、梅田望夫平野啓一郎の対談本『ウェブ人間論 (新潮新書)』。
はてなダイアリー内の言及を少し見てまわりましたけど、(『ウェブ進化論』のときと同じく)「これ読んでブログはじめました」「はてなに移りました」っていうのがいくつかあって、なるほどすごい影響力だな、と。
つっこみ甲斐のある本なので、どこについて語るかは、人によっていろいろ。なんですけど、平野さんが「ブログをやってる人の意識は五種類」という話をされていて、ここは当事者としては気になるところだろ!って思ったのですが、意外なほどとりあげている人が少ない。ええー、ここぞとばかり自分語りしてくれればいいのに!
その五種類はこんな感じ。

  • 1. リアル社会との断絶がない、実名のブログ。有益な情報交換が行われている。コミュニケーション前提。
  • 2. リアル社会では表れない一面が表現されているもの。趣味の世界で、同好の仲間とやりとりしている。コミュニケーション前提。
  • 3. 一種の日記。公開しているという意識が薄そう。
  • 4. リアル社会で抑圧されている「本音」を語るブログ。ネットの中の自分こそが「本当の自分」。
  • 5. 一種の妄想のはけ口として、ネットの中だけの人格をつくっている。自覚的な場合となんとなくそうなっちゃった場合がある?

で、ここぞとばかり自分語りしますが、私は……
……どれだ?
1番は確実に違うけど。あんまり交流もないから2番は違う。いちおう公開している意識はあるので(自覚が足りない!ってときもあるけど)3番も違う。べつにここが「本当の自分」のすべてなわけがないので4番も違う。そこまでリアル人格と乖離しているわけでもないので5番も違う。
2番がいちばん近いかな。実際にコミュニケーションしてないだけで、立ち位置としては。リアルで人と接するのが苦手な人は、ネットでも苦手なもんですよ……。
これも平野さんの発言ですが。↓

僕は職業柄、よく考えるんですが、自分を語ることは、自分を知ることではあるんですが、同時に自分を誤解することでもあると思うんです。僕はこんな人間だ、と語ってしまった瞬間から、そう信じてしまうわけですけど、結局は言葉ですから、本当はちょっとズレてしまっているわけで、それで逆に自己規定してしまってもいるんでしょう。特に、「2ちゃんねる」は極端ですけど、ブログの世界にも独特の語法があって、ブログを書き始めるときに、どうもみんな、そのコードというか、書き方を意識的にか無意識的にか、踏まえているような気配がある。

この日記の書き始めはとてもやりにくかった。たぶん、自己規定してなかったからだろう。自己規定してしまったほうが、書きやすい。あと、ブログのコードというのは確かにある、ような気がする。どういう文体で書けばいいのか、定まらなかった。なによりも、「読者」ってものがまったく見えなかった。誰に向けて書けばいいのか、わからなかった。「私」のことを知っている人なんていないし。誰も読んでくれないかもしれない。でも、誰かに読まれてしまうかもしれない。読まれたいことは読まれたい、けど、誰に読まれるとも知れないことは、こわかった。……わ、わがまま?
いまはもう、ずいぶん、らくに書いてますけど。緊張感なさすぎじゃないかな……。ブログ文体には慣れてしまったのか、それとも自分文体で押し進んでしまったのか、……もともとこれが私の素の文体だとは思うのですが。文体よりも構成がブログ的かもしれない。記事タイトルはブログっぽくないようにしてる。そして、継続して読んでくれる人がいる、というのは、助かります。全方向から妄想の視線を感じて怯えてたけど、届きそうな人がいるって知ってれば、そっちだけ見てればいいから。それ以外の方向は、あんまり見てません。


はてなブックマークについて。平野さんの、参加する人数が多くなれば先鋭性は削がれるのでは、という疑問に、梅田さんが答えているのですが。

つまり情報にハングリーな人のネット上での活動量ってすごくて、いくらコミュニティに沢山の人が入ってきても、リテラシーの高い人が先にある流れを作ってしまうというようなことが起こる。エッジが立った人のヴォーティングの仕組みというのは、母集団が大きくなっても維持できるのではないかと今は考えています。もちろん先のことはわからないですけれどね。

「薄まっていくから、ユーザーは増えないほうがいい、ブックマークのユーザーも増えないほうがいいのかもしれない」と話したこともあったんです。ところが、増えたら増えたで、スピードを競い合うようになるとか、こういう一つ一つの細かいことを話し出すときりがないんですけれども、ネットの空間って想像以上に面白い方向に転がっていくものだし、その面白い方向が見えてきたときに、また新しい技術が生まれる。「へえ、こういうことが起きるのか」「技術によってこういうことが起こせるのか」っていう発見ばかりの毎日なのです。時間と空間の感覚も、リアルの世界と違うし、なかなか仮説どおりに動かない不思議な面白い世界です。

……とはいえ、増えてもかまわない、というスタンスなのですよね。そこがちょっと気になった。私はもっと積極的に、ユーザは増えれば増えるほどいい、と思っているので。それこそ、ネット上のすべてのリソースに、ひとり以上がブックマークしている、というくらい。一億総ブックマーカー。いやむしろ五十億で。……そりゃー無茶なんですけど。そして自分はそれほどブクマ使ってないくせに何を言うかって感じなんですけど。
過去の蓄積を見たい、というときに、いまはあんまりべんりじゃないんです。技術的なところもあるけど(検索!とか、関連するタグがわからない!とか)、絶対量がまだ足りない、と感じてます。私がはてブのトップページにいくのは検索したいときなんですけど。濃いものばっかりが欲しいわけじゃないんだ。
そんなに急がなくていいのに、と思う。時間の感覚が違う……。
うーん……

ネット上で大事なのは伝播力なんです。書く人がいても、誰も見向きもしないというのは、存在しないのと一緒。そう考えることが大切です。

これは、身内が犯罪者だとか、悪口や陰口を引き起こすたぐいの悪い情報も、見向きする人がいなければだいじょうぶ、埋もれるよ、という、意味なんですけど。読んだときは、なるほど、だいじょうぶなんだな、と思ったけど、……ここだけ抜き出してみると、なんか泣けます。よい情報が埋もれることよりも、悪い情報が浮上することのほうが問題だ、というのはわかりますけど。でもって、確かに、事実上、たいていのものは埋もれますけど。梅田さんは自分の書くものが誰にも見向きされないってことはないと思ってるからこういうこと言えるんだよなあ、ロングテールの頭にいる人だよね、というのは、ひがみとかやっかみだったりしますけど。けど。
よい情報だと思うなら、見向きされるよう工夫すればいい、というのは、もっともに聞こえることではあるけど。でも、有益な情報を――有益な情報だけをネット上にのせよう、なんて風潮ができるのは嫌だ。それに、価値を判断するのは書き手ではない。
差し支えないことだったら、なんだってどんどん書けばいいのだ。鬱陶しい愚痴だって、何の変哲もない日記だって、おもしろくもない自分語りだって。本人が、誰の役に立つこともないだろうと思うことも、書けばいい。
それでも、そんなことばがいつか、誰かのこころに届くかもしれない。
私が信じているのはそういうファンタジーだ。