ある魔女のおはなし

透きとおった黒のせかいに彼女は棲んでいました。
かがやくほどに透明な黒です。どこを見てもそのいろでした。ときどき、ひかりの花が咲いて散ります。そのひかりはなにものも照らしません。ただ、咲いては散ってゆきます。
そこに彼女はいました。ずっと、ずっと、ひとりで、ひとりきりで、満たされていました。満たされていると知ることもないほどに、満たされていました。
彼女がそうしていると、黒はどんどん広がってゆくようでした。でも、それは彼女にはわかりません。
あるとき、神さまがやってきました。
「魔女よ、」
神さまのおことばは、炎のようにゆらめきさかえます。それは、彼女の目を射す、いたいほどにつよいひかりです。あたりいったいが、「魔女よ、」ということばで照らされ明るくなります。まさしく神さまでした。
「魔女よ、おまえのかがやく黒は、ほかのものには暗い闇なのだよ。このいろでせかいを満たしてはいけない。ほかを侵してはならない」
彼女はいたいのをこらえ、じっとみつめましたが、そのことばはわかりませんでした。彼女にはなにもわかりません。
「神さま、神さま、なにをおっしゃっているのかわからないわ。魔女って、なあに? ほかのものって、なあに?」
「魔女とはおまえのことだよ」
神さまの御手が彼女を指すのが彼女にもわかりました。そのしぐさをまねて、彼女は神さまを指さし、問い返します。
「おまえ?」
「違う、違う、おまえは、おまえだよ」
彼女は指をさまよわせ、彼女自身に向けて頼りなくききます。
「おまえ?」
「そうだ! っていうか、いや、そうなんだが、なんか違うぞ。そうか、おまえは、じぶん、というものを、知らないのだな。ほかのもののことも、知らないのだな」
彼女には、神さまのことばがますますわかりません。
「なにから教えればいいのか、うむ、おまえのほかにも、生き物はいるのだ。おまえは、ひとりではないのだよ」
「生き物って、なあに? おまえのほかって?」
「生き物とは生きているもののことだ!」
「生きているって?」
「生きているっていうのは……むむ、あー、うむ、えー……」
「神さまは、生きている?」
「む。うーむ、生きている、といえるかどうか、いや、えーと、うむ、生きている、そう、生きているぞ! そうだ、わたしは、おまえではない。それはわかるだろう? せかいには、おまえではないものが、いる。わたしのほかにも」
彼女はしきりにまばたきをします。まぶしいのです。それに、いっぱいいっぱいなのです。
「……神さまのほかにも、神さまがいるの?」
「いやいや、そやつらは神さまではない。どっちかというとおまえに近い。そう、おまえのようでいて、おまえではないものらが、いる。おまえは、ひとりではない。わかるか? ひとりではない」
「……」
もちろん、彼女にはちっともわからないのです。
とうとう神さまは泣き出してしまいました。
「ひとりではない、ひとりきりではないのに……かわいそうだ、おまえは、そんなことも知らない、かわいそうだ……」
神さまの涙は、しろく、とけこんでゆくようでした。黒と白とで、ゆるゆると模様をつくります。けれど、模様が複雑になりきらないうちに、混ざって、濁ってしまうのです。模様にみとれていた彼女も、濁りに気づいて泣き出しました。透きとおってないことが、彼女にはたまらなくおそろしかったのです。
「神さま、神さま、泣かないで。お願い、泣かないで、見えなくなってしまうわ。お願い、お願いよ」
神さまは聞こえないように泣きつづけます。
「どうして、どうして泣くの神さま……いやよ、やめて……」
彼女の涙は、黒くありません。透きとおってはいるけれど、赤茶いろです。透明にした血のいろ、とでも呼べそうですが、彼女は血も知らないでしょう。
神さまはさんざんせかいを濁らせてから、ひとことをのこして、いなくなりました。
「おまえはすぐに、出会うことになるだろう」
  ♪
神さまの、予言、というかむしろ宣告……のときは、やっぱりすぐ、やってきました。
「いたぞ! 魔女だ!」
そう叫ぶ、にんげんの群れは。
にんげんのひとりは、片手に剣をもち、もう片方の手で、彼女の手首をつかみました。つながれた手は、ふるえていました。ふるえているのは彼女ではなく、大きなてのひらをもったにんげんのほうでした。彼はせかいを闇に墜とすという悪しき魔女がとてもとてもおそろしかったのでしたが、その魔女をつかまえた英雄になる機会をのがすことができるほど気弱ではなかったのです。あるいは、英雄になる欲望をおさえられるほどつよくはなかったのです。
でも、彼女はなにも抵抗しませんでした。あたりまえです、彼女にはなにが起こっているのかわかりませんでしたし、わかっていたとしてもなにもできないのです。ひとりで黒のせかいで満たされる、こと以外は。
こうして彼女は黒のせかいからつれだされることになったのです。
黒で満たされていないせかいは明るかったけれど、神さまのおことばの炎ほどつよいひかりなどありようがないので、いたくはありませんでした。いたいのは縛られた手首や足首のほうでした。けれど、いたくても、彼女はあくまでもおとなしくしていました。身体を動かすということに慣れていないのです。黒で満たされていなくても、ひかりの花はかすかに見えたので、あちこちに首をまわしてそれらを見ていました。
困ったのは彼女をとらえたにんげんたちのほうでした。
彼女に話しかけてもまったく返事がもらえないのです。それもまた、あたりまえのことです。彼女はにんげんのことばなど知りません。
目の焦点があっていないことも不安でした。彼らには見えない花を彼女は見ているのです。
それに、なによりも、彼女のすがたがちいさなちいさな少女であることが、彼らの困りごとでした。あまりにもよわよわしいのです。――あたりまえです。彼女は弱いのです。
彼女は、見たことのない、ふれたことのないものばかりのせかいにつれてこられて、とてもとても忙しくしていました。ただじっとしているだけで、たいへんでした。まわりの、なんだか騒がしいもの、が、神さまのおっしゃった「生き物」であることはわかりましたが、どこからどこまでがその生き物の区切りなのか、わかりませんでした。その生き物と彼女自身が似ているなどと、気づきはしませんでした。
やがて――
彼女がひかりの花を見ているとき、その方向、焦点のあうところで、自然のうねりがあることがにんげんたちにわかるようになりました。それが彼女の起こしていることだというひともありましたが、彼女がよわよわしくかわいらしかったので、彼女はそれを神さまからきいて伝えようとしているのだ、という声が優勢になりました。
彼女は魔女ではなく、巫女と呼ばれるようになりました。ひとびとは彼女をかざりたてます。
けれど、彼女はうしなった黒のせかいを夢見ていました。どうすればあそこに戻れるのか、わからないで、ただ夢見ていました。
神さまはときどき、彼女のところにやってきました。あれほどいたくまぶしいのに、にんげんたちには神さまが見えません。神さまは彼女のそばで泣いていくのでした。ひとりじゃないよ、かわいそうだ、と。彼女にはずっと、神さまがなぜ泣くのかわかりません。なので、神さまがずいぶん身勝手だともわかりませんでした。
時はすぎゆきます。けれど、彼女には時というものもわかりません。
ただ、まぶたを閉じると、あの慕わしい透きとおった黒に、すこぅしだけ、似ているようで、……だんだん、彼女は、まぶたを閉じるばかりになってゆきました。
……まぶたを閉じていても、花の匂いには頬がゆるむのです。けれど、それが花の匂いというものだと彼女は知りませんでした。それをそばにおいてくれる、彼女を見ているにんげんのことも、わかってはいませんでした。
それでも、わかっていなくても、それが、それだけが、彼女が満たされなくなって、ひとりになって、あるいはひとりではなくなって、得たものだったのです。