それは「希望」ですか?

一昨日の、『希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』の感想のつづきっぽい。
あらためて本の説明を。
問題は「質的格差」である、と。昔は「量的格差」はあっても「質的格差」はなかった。「下」の人であっても、だんだん所得が上がっていって生活がよくなっていくことを期待できた。「上」に人がいることがわかっていても、自分がそこにいくには時間がかかるだけだという希望が持てた。みんながパイプラインを流れていて、そこから漏れることはほとんどなかった。今は、違う。優秀な人はどんどん稼げて結婚できて子どもの教育にも力が入れられるけど、フリーターは一生フリーター、派遣社員は一生派遣社員、ひきこもりは一生ひきこもり、当然お金も出会いの機会もないから結婚できない。パイプラインから漏れてしまった人は未来に希望が持てず、やる気がない――。
のだそうです。
人はパンだけでは生きられない、といえば、その通りで、そこで「希望が必要なんだよ」と言われてしまうと、ああそうですねー、とか思ってたのですけど、お気楽に生きている私に希望があるかと問われれば、いえ特にありませんが……、と。階層からいえば私はどうやら「負け組」で「下流」らしいので、希望がないことに不思議はないですが、そしたらなんで幸せですかね? ……先のこと考えなさすぎかな。
それはともかくとして、この本で語られる昔の「希望」の構造というやつ、よくよく考えるとけっこう不気味。「明日はもっとよい日になる」と信じていられるのって、そりゃあイイことかもしれないけど、「明日は」「明日は」……それって、ずーっと、「今が満足」になることはない、ってことじゃないのか。もう十分いい暮らしができてるはずなのに、「もっと上に何かある」って思い込まされてるみたい。……もちろん、その時代の人たち(私にとって身近な人でいったら両親)がみんな、いつも、そう思っていたなんて考えてませんけど。あくまでも大まかなモデルなんだし。
けれど、そんな「何も考えなくていいから受け取っておきなさい」みたいな希望、欲しいか?と問われれば、要らないですーこわいよ不気味だよー、と。

ある役割にとらわれないことは責任を放棄することにもなるが、自分とはいったい何であるのか、鏡をのぞき込むように向きあうことでもある。

「希望」で「鏡」を隠していたんだあー(って、陰謀説は楽ちんだなー)。でも、誰もが「鏡」を見ながら生きていけるわけではないんだろう、きっと。

自由とは、何よりもまず、自分自身であることができる力だ。

少し言い方を変えるならば、「(本流を選ばずに)典型的な何者かにならないという道」を選んだ場合には、「(その人の)能力」でなく「(その人の)存在意義」が問われることになるに違いない。そして、その(自らの立ち位置、存在位置を問う)辛い問いに答え続ける力、あるいは、その問いを軽く聞き流し続けるドン・キホーテのような奇跡的な力が必要になる。

私はすっごくかんたんに自分に対しておっけーが出せるのですけど、そして自分自身のおっけーだけで十分なんですけど、ドン・キホーテですかね……。


つづく……か?