なにをかんがえているのかわからない

筒井康隆の作品に、「七瀬三部作」(『家族八景 (新潮文庫)』『七瀬ふたたび (新潮文庫)』『エディプスの恋人 (新潮文庫)』)と呼ばれるテレパスを主人公としたシリーズがあります。というか家族八景ってキーワードになってますね。ええっっ、萌えかっ??
読んだのは十数年前なのでおもいっきしうろおぼえなんですけど。その、精神感応能力者である七瀬が人の心を読む描写として、{}でひとつの文章をふたつみっつに分岐させるという手法を使っています。人の心は一度にただひとつのことを思うのではなく、並列処理になっている、ということでしょう。
でも、そもそも言語でものを思っているだろうか?とか疑問に思うわけです。
どうなんでしょう? ひとのことはもちろん、自分のことさえよくわからないのです。でも、たとえば、中学一年生のときのクラスメイトのことを語ってください、と言われた瞬間、思い浮かぶのは名前とか顔とかじゃなくて、もっとこう……記号じゃないですか? 学級委員とか、部活がいっしょだった、とかの属性だったり、フォークダンスで足をふんづけたというエピソードだったり、そういう記号のかたまりがいっしょくたになってぶわっと思い浮かんだりとか……するような気がする。足ふんづけてごめん、失敗した、自分恥ずかしいよ、とかがいっしょになった何かがひらめいて、ひらめいた何かを分解していって、ああそういえばそういう人がいたなあ、とわかる、……このあたりでは言語化されているのだろうけど。でも、言語化されずにふわふわ浮いたままになっている「ひらめき」「思いつき」のほうがはるかに多いはずだ、と思う。語ってください、と言われれば、言語化するように準備するだろうけれど、そうでなければ、……どうなんだろう、私はかなり「ひらめき」「思いつき」を言語で分解しているような気がするけれど、絵だったり旋律だったり数式だったりする人もいるんだろう、とか思う。私はだいたい[あとで書く]タグをつけているので、実際に書くかどうかは別として、言語化を意識している……と思う(そしてさも「論理的に」考えたかのようにふるまうのですけど)(口で喋ることはあんまりない)。
それで、だ。人の心を読む、というのは、どの部分を読んでいるのだろう、と。「暑い暑いと思ってるとよけいに暑くなるよ」とか言いますけど、「暑い暑い」と思っていても、「暑い」という言葉が浮かんでいるわけではないですよね(たぶん……)。個人のなかの「暑い」というイメージを、他人が見てそれがその人の「暑い」だと理解することなどできるのだろうか。それともそういうイメージは普遍的なもの? 恨みつらみ憎しみとかの「負の感情」を「どす黒い」と形容しますけど、その感情はほんとうに「黒い色」をしているだろうか。というか、その形容は「文化」であって、やっぱり普遍的なものではない……。「黒い色」というのも、頭のなかではさらに「記号」……?
妄想する。私は言語化しなければ自分が何を思いついたのかも理解できず、記憶できないようなのですが、「ひらめき」を「ひらめき」のままの形で理解し保存することができる人間がいるとしたら、どんな人間なのだろう。言葉にすると変容してしまう「何か」をそのまま理解するって、どんなことだろう。ものすごい処理速度が実現できそうなんだけど……「そのまま」を伝達することはできないので……。
数学者の思考は、興味あるな。私は学校の数学はまあまあできるほうでしたけど、ほんとうに数学のセンスのある人は、まったく違う回路を持っているはずだ、って思ってるので(私が数式を読み解くのに使うのは、ほとんど文章読解力だと思う)。


七瀬の話に戻しますが。彼女がテレパスだという秘密を守るために、知ってしまった人を「壊す」というエピソードがあったのです。相手が考えていることをサトリのようにどんどん言い当てていって、その恐怖によって狂わせる、という。その、狂う、という決定的な一瞬――その人の心は完璧な空白になった、という。
空白。無。雑音の絶えない人間の脳――そのはずなのに、なんにもなくなってしまった、その一瞬