電源スイッチの美学

7日に書いた質問のこと、まだつらつらと考えたりしているのですがー……。
とりあえずパソコンは電源スイッチで切れるようにならなくちゃダメですよね、と。
……思考の過程をすっとばしましたな。
どのようなハードウェアに進化するにしろ、やっぱり「みんな」が使えるようなものでないといけないな、と考えたとき、現状のパソコンを見ててネックになってるのはユーザインターフェースの部分じゃないかと思ったのでした。いまのパソコンは、使いにくい、のです。……これ読んでる人、いまのご自分を基準にして考えてはいけませんよー、昔の、まっさらな、無垢だった頃を思い出してくださいね。
この文章を読めているということは、たいていの場合はすでにウェブブラウザを起動していることかと思います。ブラウザは、まあ、Internet Explorerという、Windowsについてくるのを使っている人が多いですかね、あの青い「e」のアイコンをダブルクリックして、「お気に入り」から選ぶか、他のページからリンクをたどってきたか、そうやっていま、この文章を読んでいますよね。それ、知らなかったら、どうですか? パソコンがまったく使えない人でも、「やふー」の存在は知っていたりするものなのですが、その「やふー」を見るためにはあの青い「e」をダブルクリックせねばならぬ、ということは、知らないのですよ。オフラインで人に教えてもらわなければ、どうにもならないのです。(脱線しますけど、ときどき、マウスカーソルの形を意味もなく変えているサイトがありますけど、あれはやめて欲しい、と思う。あの形にはそれぞれ意味があるのです。その意味を誤解させるような、あるいは意味がないのだと誤解させるような行為だからです。「手の形になったところを押すと、他のページに行けるよ」って言えなくなるのです。)
一度おぼえればそれでいいじゃん、というところではありますが――そういう、一度おぼえればいいのに、というのがいっぱいになったら? パソコンの性能が上がって、アプリケーションソフトの種類も機能も増えて、いっぱい入れられるようになって、けれど、どのソフトを使えばやりたいことができるのか、わからない――それはやっぱり、「使えない」でしょう。なので、「こういうことをやりたい」って口にすれば、準備を調えてくれる、という風になってくれないと、と思ったのですが――
よく考えてみれば、それはインターフェースだけの問題ではないのですね。音声認識とか自然言語処理とかだけの問題ではない。もっと根本的な、OSの設計思想に関わるような。現状、OSは、そのコンピュータに何ができるのか、「理解」してはいません。命令されたことを実行するだけです。それぞれのアプリケーションが「何」をしているのか――この「何」は人間が理解する「何」ということですが――「彼」(?)もまた、「知らない」のです。なので、「こういうことをやりたい」って口にして「伝わった」としても、返ってくる答えは「できるかどうかわかりません」になるでしょう。「これこれのアプリケーションを起動してこういう操作をして結果をどこどこに出力して」と言えば、やってくれるのでしょうけど――それはいちいちコマンドを入力するCUIと同じだ、というかたぶんコマンドを入力するほうが早いでしょう。
で、そもそもの質問に戻りますけど、「無限」になるのだとしたら、そんな個々のアプリケーションなどという概念はなくてもいいんじゃないか、とも思いました。すべてのハードウェアに、すべての機能がある。何かをするために、わざわざ特定のソフトをインストールする必要などない――いや、たぶんそれ、開発がたいへんというかたいへんどころじゃないというか。あと、均一は危険だ、とか――。


あれ、おかしい、電源スイッチの話におちつかなかった、思考を正確にたどらなかったようだ。……えーっと、あれ、ネックなんですよ。電源入れたのと同じようにして切ってはいけない、というの。「みんな」にパソコンを使わせたいなら、あれをどうにかしないと。
あと、私はコンピュータ業界の人ではありませんです。ぜんぜんまったく。詳しい方、なんか違う!と思われましたらつっこんでくださると助かります。