自己言及

カル・ニューポート『デジタル・ミニマリスト スマホに依存しない生き方』(ISBN:9784150505738)を読んで、このオビは皮肉なんだろうか……

といぶかってたんですけど……こう、「活字離れがすすんでいるという主張は活字によって世間に流布されている」的な。べつにSNS全否定な本ではないですが、SNSは主導権を向こう(運営)に握られやすいデザインになってるから気をつけろ的なことは言ってる。そんなしょっちゅうチェックして情報を得る機会を逃さないようにがんばらなくてもいい的なことは言ってる。パソコンでたまにチェックして、スマホからは削除するぐらいでいいとは言っている。
ちなみに著者はSNSをやってないらしいが。
そして私はスマホを持ってません(なぜ読んだんだ)。

しかし、アルトゥール・ショーペンハウアー『読書について』(ISBN:9784334752712)(『余禄と補遺』から、「自分の頭で考える」「著述と文体について」「読書について」)を読んだら、それよりはるかに皮肉が効いていたね!

 議論の余地ある問題に権威ある説を引用して、躍起になって性急に決着をつけようとする人々は、自分の理解力や洞察の代わりに、他人のものを動員できるとなると、心底よろこぶ。かれらにはそもそも理解力や洞察が欠けている。こうした人々は無数にいる。セネカが言うように「誰だって、判断するより、むしろ信じたい」(『幸福な人生について』I、四)からだ。

古典からの引用が多いんですよ……で、新刊書に読むに値するものなんかないから読むな、古典を読んでればいいのだというし、

 いま話題にしている主観的文体・客観的文体の相違は表現の仕方全体にもあてはまり、個々の事例でもよく見受けられる。たとえば、今しがた新刊書で「私は大量の既刊書の数をふやすために執筆したのではない」という文を目にした。これは書き手のもくろみとは正反対のことを告げており、おまけに愚の骨頂だ。

こんなことも書いてるけど、どんな古典もはじめは新刊書だ――という以前に、この本自体も新刊書として出版されたのだ。
で、ヘーゲルがきらいなんだな~というのがにじみ出てるというか、もろ出しになってるんですけど、ベルリン大学の講師になったときにヘーゲルと同じ時間に講義予定を入れて、受講学生数で惨敗したという経緯があったらしい。もちろん、そのせいではなく、その業績に対して意義を見出せない、尊敬できない、それなのに名声があることにもの申したいのかもしれないけれども、たしかに、古典ではなく同時代人の著作について語ると「なんか私怨でも……?」と思われてしまうのでやめたほうがいいというのは体現してくれているのが興味深い。

プライドの高い彼はみずから大学教師としての道を断ってしまう。だが大学側は契約通り二十四学期、すなわち十年余りにわたって、規則正しくヘーゲルと同じ時間に講義するとの予告を出していた。かわいそうなのは待ちぼうけをくわされた学生たちである。
「解説」

ほんとにな! なんで大学はクビにしなかったのかな!
で、書くことに報酬がつくとなると、書くこともないのに書く、書くに値しないことを書いている文が増えるって嘆いていて、無報酬尊いっていうのですけど、解説と年譜をみるかぎり、この人、ほとんど働いてない……。父が豪商だったのでその遺産がたんまりあったのか、生涯独身の高等遊民っぽい……。本を出しているし稼いだことがないわけではないが、家族や自身を養うために働く必要はなかったようなので、同時代の扶養者ありの学者や大学人はこの主張を読んで殴りてえって思ってましたわよ、きっと。